前々回、前回と続いて、「武蔵陵墓地等の明治以降の天皇の陵墓が天智天皇の山科陵を範として造営されている背景」、「天武系天皇8代7名の位牌だけが泉涌寺に祀られていない理由」について考察してきました。
今回は、天皇の諡号(しごう)に注目して、話の続きをしてみたいと思います。
生前自らの諡号を定めていた後醍醐天皇の場合を除いて、天智天皇、天武天皇を含む歴代天皇の諡号は、その死後に付けられたもので、在位中は今上天皇(きんじょうてんのう)と称されます。
中国から導入されたと言われる諡号というコンセプトは、「君主の生前の事績への評価」と、「その後継者による王権継承と即位の正統化」という両方の意味合いがあるようです。
従って、天智天皇という諡号は、天武天皇の時代につけられたと考えられます。
ところが、作家の井沢元彦氏は、その著作「逆説の日本史」の中で、「“天智”という諡号は一見良い名前のように見えて、中国史上、最も悪名の高い殷(商)の紂王(ちゅうおう)が身につけていた“天智玉(てんちぎょく)”から採られたのではないか、それに対し、天武天皇の“天武”という諡号は、自らを、殷(商)を滅ぼした周の武王(ぶおう)になぞらえてつけさせたのではないか」という見方を紹介しています。
私は、作家「宮城谷昌光(みやぎだにまさみつ)」氏の中国の歴史小説のファンで、「王家の風日」や「太公望」といった、殷周革命(いんしゅうかくめい)をテーマとした本も読みましたが、この説は、大変説得力があると思います。
天智天皇の諡号を殷(商)の紂王の「天智玉」と結びつけて考えたのは、森鴎外(もりおうがい)で、その著作「帝諡考(ていしこう)」の中でそのことに言及しているそうです。
さすがは、明治の文豪・森鴎外先生、目の付け所が違いますね!
天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后であった第41代持統天皇(じとうてんのう)は、天武天皇の死後、皇統を天智天皇の男系の血筋に戻すために、自分の血を分けた草壁皇子(くさかべのみこ)が早逝(そうせい)したため、自分の血筋である孫の軽皇子(かるのみこ)(第42代文武天皇)が位を受け継ぐことを目的として、「つなぎ」として、自ら天皇の地位に就いたという見方があります。
諡号の「持統」には、「正当な血統を維持した」という意味合いが込められているとのことです。
更には、鎌倉時代初期に藤原定家(ふじわらのていか)により作られたと言われる、お馴染みの小倉百人一首の第一番歌の歌人は天智天皇となっており、この順番については、「天智天皇が“始祖”である」という考えに基づくものだという説もあります。
もっとも、紫式部などの女性歌人5名も含めて、小倉百人一首の歌人の三分の一が藤原姓とのことなので、ご先祖(中臣鎌足)に藤原の姓を賜った天智天皇の顔を立てたということもあるかも知れません。
いずれにしても、武蔵陵墓地の上円下方墳を含めて明治以降の天皇家の陵墓が、すべて、天智天皇陵をモデルにして造営されていること、壬申の乱で、天武天皇に殺害された「大友皇子」が、明治時代になって「弘文天皇」と追謚(ついし)(死後に諡(おくりな)を贈ること))されているところなどを見ると、すべて、「万世一系」という“建前”を補強するデモンストレーションの一環なのかも知れませんね。
神武天皇以来の「万世一系」の歴史という多分に神話の世界を含んだ「古事記」(神代から推古天皇の時代まで)と「日本書紀」(神代から持統天皇の時代まで)(総称して「記紀」)は、第42代文武天皇に続く、第43代元明天皇、第44代元正天皇の時代に完成されたものと推定されています。
なぜ似たようなものを二つも作ったのかという素朴な疑問が湧きますよね。
その答えは、古事記は、神話もふんだんに取り入れ和文で表現した「国内用」、日本書紀は、漢文で表現した「中国人にも読める日本の正史」としての「外交用」ということのようです。
今、日経新聞の朝刊で連載されている安倍龍太郎氏による「ふりさけ見れば」という小説をお読みの方もいらっしゃるでしょう。
私も毎朝楽しみに読んでいますが、この小説は、唐の史書編さんの中核である秘書省(ひしょしょう)で順調に出世を遂げている遣唐使、阿倍仲麿(あべのなかまろ)が主人公のお話です。
主人公は、小説の題名にもなっている「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出し月かも」という小倉百人一首にも選ばれた望郷の歌でも知られています。
日本が、唐の冊封国(さくほうこく)(唐を宗主国とした従属国)からより対等の独立国への道を進むには、唐の朝廷に「日本書紀」等の日本の史書の正しさを認めてもらう必要があり、そのためには中国の史書との整合性を保たなければなりませんでした。
そのため、唐の朝廷の秘書省等にある秘密の文書庫から必要な文書を入手すべくスパイとして活動する密命を帯び、国際人としても活躍した阿倍仲麿の苦悩や葛藤を描いたというのが、この作品です。
多分にフィクションなんでしょうけど、仮説としては面白いですよね。
日本書紀の「神武天皇以来の万世一系の皇統」という“もう一つのフィクション”も、易姓革命により王朝交代が頻繁に起こる中国に対して、「日本は、万世一系の天皇が統治する国で、歴史も長くてお前のところよりこんなにスゴイんだぞ!」と、ハッタリを効かせて、相手に一目置かせるいう効果も狙ったものだったのでしょう。
ですから、神武天皇まで「“無理して”遡っちゃった」というのも、国内的に朝廷の威信を高めようというよりは、多分に「外交上の目的を達成するため」だったのではないかと想像が広がってゆきます。
但し、日本書紀の時点では、天皇の諡号も、天智天皇や持統天皇のような漢風諡号(かんふうしごう)(中国風の諡号)ではなく、それぞれ、天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと)、高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)のような呼称が使われていたようで、漢風諡号というコンセプトも遣唐使が持ち帰ったものと思われます。
作家の梅原猛氏は、NHK市民大学講座で、「天孫降臨(てんそんこうりん)の神話は祖母から孫への譲位を神話化したものです。ところで、日本において祖母から孫への譲位はただ一度あるのみです。それは697年(文武元年)、持統帝から孫の文武帝(もんむてい)への譲位であります。」と、解説しているようですが、梅原氏の著作「神々の流竄(かみがみのるざん)」の中でも同様の趣旨が述べられています。
前述の通り、持統天皇の和風諡号(わふうしごう)は、「高天原広野姫」です。
高天原を支配しているのは天照大神です。
なるほど、記紀における天照大神のモデルは持統天皇か!?
記紀の記述にある「天孫降臨」というコンセプトに関わる天照大神のモデルとしての持統天皇は別として、個人的には、「天岩戸伝説(あまのいわとでんせつ)」という角度から考えた場合、「伊勢神宮の内宮(ないくう)に祀られている天照大神のモデルは伝説の邪馬台国女王(やまたいこくじょおう)の卑弥呼(ひみこ)(日御子(ひのみこ))であり、外宮(げくう)に祀られている豊受大御神(とようけのおおみかみ)は、卑弥呼の二代後の邪馬台国女王壹与(とよ)である、或いは、卑弥呼と壹与の双方を合わせたものが天岩戸伝説に登場する天照大神モデルである」という説と、邪馬台国九州説の組み合わせが説得力があり、面白いと思っています。
天孫降臨のエピソードは持統天皇の行為を正当化する主として国内向けのもの、天岩戸伝説は、中国側の史書である魏志倭人伝にも実際に登場する卑弥呼をモデルにした外交用のもの、というように考えれば面白いんじゃないでしょうか?
つまり、持統天皇か卑弥呼かというような二者択一ではなく、天照大神という存在は、記紀が作られた時代の権力者の事情、国際関係にも配慮して、持統天皇(天孫降臨)と卑弥呼(天岩戸伝説)という二つの顔を融合させて記紀に取り入れたということではないかと妄想してしまいます。
「天岩戸伝説」の話をすると長くなるので、また、別の機会に譲るとして、このところ高尾山から遠のいていますので、次回は、一旦高尾山に戻りたいと思います。
今拝読いたしました。いろいろとよくお読みになられているし、こんなに書くお力をお持ちとは、長いお付き合いですが知りませんでした。
偏った内容の長すぎると言われる投稿を読んで頂けるだけで感謝!
面白く拝見しています。
神武天皇を始祖とする大和王朝と、委奴国から続く九州王朝の、政権争いという説があります。
邪馬壱国の前身が抗奴国であり、句奴国と呼ばれた末に東遷して大和王朝に繋がる,
と、私は考えています。
今後も、楽しみにしています。
コメントありがとうございます。そのうち、貴君の故郷旧福岡県山門郡(やまとぐん)も登場するかも?乞うご期待!