日本には、八百万(やおよろず)の神々がいらして、外国の神様でも、仏様でも、偶像崇拝でも受け入れる、ある意味、現実的で、いい加減なところがあります。
一言でいえば、日本の宗教文化は“ゆるい”ということでしょうか?
「薬王院の生き残り大作戦」の稿でも取り上げましたが、日本に仏教が伝来した以降は、仏教における偶像崇拝の影響で、神道においても、「神像」が作られて、それが「御神体」として祀られるような事象も見られるようになりました。
老後に郷土史研究を趣味にしていた亡き父から、『神仏分離令が公布された直後に、地元の(実家のある相模原市の)八幡神社のご神体が「お地蔵さん」だったということで大騒ぎとなり、一人の知恵者がこれに鬘(かつら)と髭(ひげ)をつけることにより神様らしくして、お上の目を誤魔化したというエピソードがある。』という話を聞いたことがあります。
これは、正確には、お地蔵さんではなく、「僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)」の像であったのではないかとも思われますが、神も仏も一緒くたになった、日本の宗教文化的一面を象徴する出来事の一つといえるかも知れません。
高尾山の薬王院に祀られている飯縄大権現(いづなだいごんげん)も、神様でありながら御本尊であり、不動明王のアバター(化身)ともされています。
個人的には、良く言えば「度量の大きい」、日本の宗教文化の中で暮らすことができて幸せだと思っています。
共産主義の無神論は、現在の中露のような権威主義体制に通じるようで息が詰まります。
一方で、キリスト教やイスラム教といった独善的な一神教国同士で、或いは、同一国内の宗教対立が原因となって、それが、社会の分断、戦争、民族紛争等に繋がるようなことは馬鹿げているようにも思えます。
無論、文化的背景も違いますし、日本という島国に住んでいると、国境を跨ぐような宗教問題には鈍感になって、陸続きで異教徒の国々と直接に国境を接するような緊張感は理解できないのかもしれません。
更には、私を含めて多くの日本人がそうであると思いますが、宗教については、表面的な知識はあっても、本当の意味では信じていないからかもしれません。
資本論を著したカール・マルクスは、宗教を「民衆の阿片」に例えたようですが、今、巷で話題の「霊感商法団体」の類は論外としても、必ずしも宗教の害悪のみが強調されるべきではないと思います。
例えとしては、あまり適切ではないかも知れませんが、「阿片は乱用すれば有害でも、阿片の成分から作られるモルヒネは、鎮痛剤としての効果はある」というぐらいの意味ですが・・・
この表現は、日本共産党による、『マルクスが宗教を「民衆の阿片」に例えたことの意味』についての説明の一部を抜粋したものですが、彼らが、どこまで本気で言っているのか分からないものの、公平なコメントだと思います。
いずれにしても、不必要な誤解を招かないためにも、訪日外国人とは宗教の話はあまり積極的にしないほうが無難ということでしょうね。
それでも、話の流れで、日本の宗教事情について触れる必要があるときは、あくまでも客観的な事実面に話題を絞って、次のような内容の話の中から、その場にあったトピックを選んで説明しています。
・土着の宗教である神道の「多神教」としての性格により、日本人は仏教などの外来の宗教を容易に受け入れることが出来ました。
・特に、日本に導入された大乗仏教は、神道と同様(自然界、宇宙の万物に神が宿っているとする宗教観である)汎神論(はんしんろん)的性格を有しています。
・一方で、そのような文化的な背景もあって、キリスト教やイスラム教などの「一神教」の信者は多くありません。
・私の場合はどうかと問われれば、「仏教徒であると同時に、神道信者である」とお答えします(無宗教などと答えると、神をも恐れぬ「ヤバいやつ」と思われそうですから・・・)。
・ある統計によれば、日本における神道信者の数は約89百万人、仏教徒の数は約85百万人、キリスト教徒の数は約2百万人とされています。その他の宗教の信者は約7.4百万人で、これらを合計すると日本の人口の約1.5倍近い人数になってしまいます。
・これは、日本人が信心深いということでしょうか?いや、殆どの日本人は信心深いというよりは、迷信深いという方が正確だと思います。「困ったときの神頼み」です。
・歴史的に見ると、江戸時代、徳川幕府の厳しい宗教統制・支配のもとで宗教勢力は弱体化しました。時の政権と思想的な対立を引き起こす可能性のある宗教的な教義よりも、儀式的な活動に注力することを強いられたからです。その結果、様々な迷信もはびこるようになりました。
・しばしば、「日本人は神道信者として生まれ、仏教徒として死んでゆく」と言われます。つまり、赤ちゃんが生まれると、お宮参りといって、両親は近くの神社に赤ちゃんを連れて行って神様の前で赤ちゃんの誕生を報告し、健やかな成長を祈願します。死んだら、葬儀は仏教の教義に基づいて執り行われるのがより一般的です。
・つまるところ、神社は、主に結婚式、七五三、お宮参りといったおめでたいイベントを司(つかさど)り、お寺は、主として葬儀のような不幸なイベントを司るというわけであり、これが、両者の大きく異なるところです。前者は「現世」のこと、後者は「来世」のことに力を入れているとも言えます。
・しかしながら、結婚式について言えば、一見伝統的とも思える「神前結婚式」の歴史は短く、1900年にキリスト教式の結婚式をモデルにして行われた大正天皇の婚礼の儀が最初のものであると言われています。
・更に、今日では、60%以上のカップルがキリスト教式の、教会での結婚式を選択しているという事実もあります。
・キリスト教式でありさえすれば、カトリックか、プロテスタントかの区別については、結婚するご本人達は殆ど気にしていないようです。
・日本では、仲介人は神父さんではなく、牧師さんである場合がほとんどのようなので、結論としては、プロテスタント式がほとんどということでしょうね。・・・といっても、牧師さん役自体も、英会話教師の週末のアルバイトという場合も多いようです。本物の牧師さんだと費用もその分高くなるようですし・・・
・我々は、主として楽しむためにクリスマス、バレンタインデー、ハロウィンもお祝いします。
高尾山を訪れる訪日外国人は、さほど日本の宗教文化に関心を示す人はいないかもしれませんが、一方で、ご自身の日常生活に宗教がしっかり根付いている方もお見受けします。
特に、イスラム教徒の方にはそれが顕著で、「お祈りの時間なので、ここでお祈りしても良いですか?」と、ランチタイムに、やおら、用意してきた拝礼用の敷物の上で、GPSを利用したスマホのアプリでメッカの方角を確認しながらお祈りを始める方もいます。
そういう方達は、ラマダン(イスラム教徒が断食を行う、イスラム太陰暦の第九月)の時期には、高尾山でのランチもスキップするのはいうまでもありません。
ラマダンの時期でなければ、特に、ハラルフード(イスラム教の教えに沿って食べることが許されている料理・食べ物)のランチを持参する方もいます。
最近では日本でも、ハラルフードを以前より容易に手に入れることができるようになったようです。
東京だと新大久保の「イスラム横丁」が有名だそうですが、八王子にもハラルフードを売る場所があります。
「世界経済フォーラム」が発表した2021年の旅行・観光の魅力度ランキング上、日本が対象117か国・地域の中で第一位になったというのも、過去10数年来の観光立国に向けた日本の努力が実を結びつつあるというふうに考えたいところですね。
現在の超円安も、資源や食糧を中心とする輸入品の高騰などにより日本経済にはダメージが大きいですが、ポジティブに考えれば、いわゆるインバウンド需要の復活・拡大の起爆剤となる可能性を秘めているとも言えるわけです。
新型コロナウィルス問題の水際対策の緩和と共に、たとえ、今年の紅葉シーズンには間に合わないとしても、来年の若葉の頃には、外国語が飛び交う高尾山が戻ってくるのではないかと期待しています。