薬王院の四天王門を過ぎると、薬王院本堂までの次のセキュリティ・チェック・ポイントは、大僧坊(だいそうぼう)の手前の石段を登ったところにある仁王門です。
四天王門と違って、江戸時代前期に建造された古い建物で、建築様式としては銅葺寄棟造り(どうぶきよせむねづくり)を採用しており、東京都の指定有形文化財です。
仁王と呼ばれるペアの「金剛力士像(こんごうりきしぞう)(Vajradhara:ヴァッジュラダラ(金剛杵を持つ者の意))」が門の両側で薬王院の警備を行なっています。
向かって右側の阿形の像は金剛杵(独鈷杵(どっこしょ))を持っており、那羅延金剛(ならえんこんごう)と呼ばれます。
向かって左側の吽形の像は、密迹金剛(みっしゃくこんごう)と呼ばれています。
日本最古といわれる法隆寺中門(ちゅうもん)の金剛力士(仁王)像や、東大寺南大門(なんだいもん)の有名な金剛力士(仁王)像と同じく、上半身裸です。
中国風の甲冑を身に纏っている四天王と比べると、“暑いインドからの直輸入”という感じがしますね。
サンスクリット語の呼称(Vajradhara:ヴァッジュラダラ)が一人分しかないことから、元来は単独行動の神様ではないかということが推定されますが、単独で祀られる場合は、金剛力士ではなく、執金剛神(しっこんごうじん)と呼ばれています。
門番として起用される場合は、単独だとバランスが悪いので、ペアの像として造形され、それが定着して、二王( → 仁王)と呼ばれるようになったようです。
デザインとしては例外もあり、東大寺三月堂(法華堂)内で、御本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を護衛している「阿吽形が左右反対」のペアの金剛力士像(ここでは、阿形のものを金剛力士、吽形のものを密迹力士と呼んでいるようです)は、中国風の甲冑を身につけた像(着甲像)であるという特徴があります。
同じく、東大寺三月堂(法華堂)内に、不空羂索観音像の後方の厨子(ずし)内に保管され、一年に一回ご開帳の秘仏とされている執金剛神も着甲像となっています。
法隆寺中門の仁王像に見られるように、日本に入ってきた当初はインド風に上半身裸であったが、その後、中国風の着甲像のデザインを採用するものも出てきたということなのかも知れません。
薬王院では、仁王門の裏側(本堂側)を阿吽形の二つのファニーフェイスの天狗像が守っており、仁王門というよりは、実質的にはもう一つの四天王門のようで、薬王院に特有のものともいえそうです。
但し、四天王門と違って、仁王像と天狗像のそれぞれのペアは、「左上右下の原則」と「阿吽形配置の原則」に基づいて厳格に配置されています。
成田山新勝寺の仁王門も、「阿吽形配置の原則」に則って、阿形の那羅延金剛(向かって右)と吽形の密迹金剛(向かって左)が門の正面に配置されていますが、大天狗と小天狗の代わりに、門の裏側を、共に吽形の広目天と多聞天が固めています。
つまり、高尾山に似たような二重の警護体制になっているようです。
もっとも、ファニーフェイスの天狗のペアに頼る高尾山よりは、強面の広目天と多聞天を加えた成田山新勝寺の警護体制が厳重のように見えますね。
ところで、少数ですが、東大寺以外でも、仁王像(金剛力士像)の阿吽形の配置が左右反対の例が見られます。
東京大空襲で焼失し、戦後作られた浅草寺の宝蔵門の仁王像は、阿吽形の配置が左右反対です。
https://www.senso-ji.jp/guide/guide03.html
この他、阿吽像の配置が左右反対である例としては、先頃7年振りの前立本尊御開帳を行っていた長野の善光寺の仁王門があります。
https://www.zenkoji.jp/about/syuyou/
「浅草寺、善光寺の仁王像は、共に、仁王門としては最も有名な東大寺南大門の仁王像を模して作られたから」という説があるようですが、説得力があると思います。
四天王と同じく、仁王のお役目は、伽藍(がらん)や仏法の守護ということになっていますが、現在の高尾山の宗教的支配者は、飯縄大権現といういかにも強そうな強面の御本尊ですから、薬王院の四天王も仁王も警備担当者としては負担が少なそうで、その分気楽かも知れませんね。
知識がないのですが、毎週楽しみに拝読しています。
金剛力士像の最古のものとして、長谷寺法華説相板の像があると書かれた辞書がありました。