高尾山の中心となる宗教施設は、正式には「高尾山 薬王院 有喜寺」と呼ばれ、一般には薬王院として知られています。
1881年以降、現在に至るまで、薬王院は真言宗智山派(しんごんしゅうちざんは)(総本山は、京都の三十三間堂にもほど近い智積院(ちしゃくいん))に属し、現在では、「川崎大師平間寺(かわさきだいしへいけんじ)」、「成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)」と並んで、真言宗智山派の関東三大本山の一つとされています。
しかしながら、結論から言えば、「現在の薬王院は、明治維新の神仏分離令に伴う荒波を避けるために、“行きがかり上”真言宗智山派に鞍替えしたものの、その心は、依然として“修験道の霊山”のままである」というのが実態であるように思われます。
薬王院は、第45代天皇である「聖武天皇」の勅命により、天平時代の744年に東日本の仏教の中心とすべく創建されたと伝えられています。
そして、開山(寺院を創始した僧侶)は、奈良の大仏の造営にも貢献したとして知られる「行基菩薩(ぎょうきぼさつ)」であるとされています。
彼は、いわゆる私度僧(しどそう)、即ち、“モグリ”の僧でした。
その当時、仏僧は、国家公務員であり、政府の許可なしに仏僧となることは違法でした。
しかしながら、行基は、架橋工事や灌漑事業を行うなど、多くの社会事業にも貢献しました。
朝廷はこれを高く評価し、行基に菩薩の称号を授与したと言われています。
忙しそうな人物ですから、多分、実際には、高尾山までは来てくれてはいなかったでしょうけど・・・
創建当時、薬王院のご本尊(開山本尊)は「薬師如来」(サンスクリット語で、Bhaisajiyaguru:バイシャッジャグル)でした。
サンスクリット語の文字通りの意味は、医者の長ということだそうで、仏国土の「東方瑠璃光浄土(とうほうるりこうじょうど)」の教主で、病人を治す力があるとされています。
薬王院の名前は、開山当初のご本尊が薬師如来であったことに由来しているわけです。
薬王院が創建されたのは、聖武天皇により、各地に国分寺、国分尼寺が作られたのと同時期のこととされていますが、それらの寺院でも薬師如来をご本尊とする場合が多かったようです。
その当時の国立の寺院は、科学的な治療など望めないその当時の国立病院のようなものだったのかも知れませんね。
薬師如来象の多くは、左手の薬壺(やっこ)という持物(じもつ)が特徴です。
もっとも、唐招提寺のお坊さんの話では、薬壺を左手に持っているのは平安時代以降のデザインらしいですけどね。
定年退職の直前に、家内と奈良の唐招提寺に行ったことがあるのですが、そこの薬師如来像にはそのような特徴がありませんでした。
そのお坊さんは、「見た目はともかくとして、唐招提寺の寺伝(寺に伝わる伝承)で、薬師如来ということになっているので、薬師如来なのだ。」と分かったような分からないような説明をしてくれました。
その後、一旦荒廃した薬王院は、14世紀後半、室町幕府三代将軍足利義満の時代に、今は、世界遺産にもなっている京都の「醍醐寺(だいごじ)」の僧、「俊源大徳(しゅんげんだいとく)」により再興されたと言われています。
醍醐寺の開山は、真言宗系の修験道である「当山派(とうざんは)」修験道の「派祖」とされる理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)と伝えられています。
大師というのは、弘法大師だけではないんですね。
薬王院が俊源大徳により再興された時、「修験道」の霊山として有名な北信濃の「飯縄山(いづなやま)」の飯縄神社のご祭神、飯縄大権現(いづなだいごんげん)がもう一つのご本尊(中興本尊)として勧請(かんじょう)(離れた場所にいる神や仏に対して、こちらに来てくれるように祈り願うこと)され、薬王院に祀られるようになりました。
ひょっとしたら、飯縄大権現も、当初は、「九州の宇佐八幡宮(宇佐神宮)より勧請され、東大寺の大仏に対する守護神として迎えられた手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)の八幡神」のように、薬王院の「薬師如来の守護神」というお立場ではなかったのかとも思われますが、今や、完全なるご本尊です。
宇佐八幡宮(宇佐神宮)というのは、全国に4万社以上あるともいわれる八幡神社の「総元締め(総本社)」です。
薬王院の表参道である、高尾山の1号路登山道を辿って、東京都の天然記念物である樹齢7百年以上といわれる杉木立を過ぎると、バブル経済の時代に建造されたという、総工費5億円の「総檜造(そうひのきづくり)」の四天王門が目に入ってきます。
因みに、高尾山頂近くにあるウォシュレット付き水洗トイレを多数備える二階建て(2階は女性専用)の公衆トイレも、総工費1億5千万円の「総檜造」です。
国と東京都がスポンサーですが、高尾山というのは国や東京都にとっても「結構儲かるところ」なのかもしれませんね。
この公衆トイレは、四天王門に遅れること28年の2012年に竣工し、2015年に日本政府主催の第一回日本トイレ大賞を受賞しています。
一度と言わず、何度でもお試しあれ!
ここでの、私のメッセージは、「高尾山ほどトイレ事情に恵まれた山はない」ということです。
話が脱線しましたが、その四天王門を過ぎて、薬王院の境内を進んだのち、僧坊の手前の石段を登って行くと仁王門があり、それをくぐると薬王院の大本堂に至ります。
右手を見ると立派な鐘楼(しょうろう)(鐘撞堂(かねつきどう))もあります。
薬王院の境内も、ここ迄は「仏教寺院の雰囲気が十分」です。
ところが、大本堂の前に立つと大きな注連縄が張られているのに気が付きます。
もっとも、仏教寺院なので、香炉があったり、参拝時には、誰も拍手(かしわで)を打ったりはしません。
参拝するときは、「南無飯縄大権現(なむいづなだいごんげん)」と唱えればパーフェクトです。
薬師如来は完全に無視して構いません。たぶん・・・
大本堂自体は、明治以降に、薬王院が真言宗智山派に宗旨替えした後になって建造されたようです。
公式には、「“秘仏として取り扱われている”開山本尊の薬師如来と中興本尊の飯縄大権現の双方がお祀りされているということになっている」ようです。
しかし、本当かなぁ?
江戸時代に同じ場所にあった薬師堂が火事で消失したという事実に照らしても、ご本尊の薬師如来像はもはや存在しないのではないかと疑われますが、質問しても薬王院のお坊さんは、口を割ってくれないでしょうね。
更に、大本堂の左側の石段を登ってゆくと、石の狛犬があり、その先には赤い鳥居が見えてきます。
鳥居を過ぎると、日光東照宮と同じ権現造という建築様式(拝殿、幣殿、本殿が一体となった神社の建築様式)の神社風建造物が現れます。
注連縄もあり、大本堂と違い、(私は好きではありませんが・・・)「神様が大好きな」御神酒の樽がお供えしてあります。
正に、「ご本社」!
しかし、よくよく見ると、神社には相応しくない香炉から煙が立ち上っているではありませんか!?
飯縄大権現をお祀りしているということで、毎月21日の飯縄大権現の縁日(弘法大師の縁日に同じ)には飯縄大権現像のご開帳もあり、その日は神職ではなく、お坊さんが、お神酒を振る舞ってくれます。
下戸の私も一度体験をしたことがあります(舐めただけですが・・・)。
高尾山では神職を見かけることはありません。
恐らく、これが全国的に見られる明治以前の日本の日常風景だったのでしょうか?
拝礼についても、ここでは拍手を打ちたくなりますが、たまたま通りかかった薬王院のお坊さんに質問したところ、まじめな顔で、「飯縄権現堂は神社ではありません。」と説明してくれました。
私は、通訳ガイドの資格をとった後、当初は、外国人の友人や仕事上のクライアントを相手に、「鳥居・注連縄・狛犬を見たら、それは神社ですよ。仁王門、仏像、香炉なんかがあったら、そこは仏教寺院ですよ。」などと“適当な説明”をしていました。
しかし、高尾山を知るに連れて猛反省!
困ったことに、高尾山には、そういうものが、全部揃っているんですよね。
よくよく考えると、鎌倉をガイドしたときも、銭洗弁天宇賀福神社(ぜにあらいべんてんうがふくじんじゃ)など、そのような分類の仕方では説明不能なハイブリッドな宗教施設のオンパレードでした。
高尾山には、元々山麓にあるケーブルカーの清滝駅付近の薬王院の表参道たる1号路上に一の鳥居があったそうです。
この一の鳥居が、明治維新の神仏分離令(1868年)対策の一環で、「もう薬王院は、真言宗智山派の“仏教寺院”なんだよ」ということを示すための“ゼスチャー”として破却されたものの、「(ケーブルカーもないし)お役人も山登りは疲れるから、上までは見にこないだろう?」ということで、山の上の方の鳥居には手をつけなかったのではないか、というのが、未だ煩悩多き私の“邪推”です。
山麓にあった「元祖一の鳥居」が破却された後の、実質的な一の鳥居に当たる1号路上の「浄心門」を過ぎた辺りに「神変堂(じんべんどう)」と呼ばれる小さな祠(ほこら)があります。
ここでは、「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」の諡号を持ち、修験道の開祖とされる「役行者(えんのぎょうじゃ)(役小角(えんのおづぬ))」と呼ばれる伝説的な修験者をお祀りしています。
修験道の霊山としての生き残りをかけての薬王院の涙ぐましい努力については、次回、詳しく触れたいと思います。
第三弾拝読しました。
急ピッチですね〜