聖武天皇の勅命により、天平時代の744年に東日本の仏教の中心とすべく創建されたと伝えられる薬王院は、一旦荒廃した後、14世紀後半に「醍醐寺」の僧、「俊源大徳(しゅんげんだいとく)」により修験道(しゅげんどう)の霊山として再興されたといわれています。
修験道は、精神的、肉体的な欲望を否定することに重点を置いており、山に籠って厳しい宗教的な修行を行うことを通じて理想の精神的境地に達しようというものです。受け売りですが・・・
古来、日本では、山は神様の住むところであり、神聖な場所と考えられてきました。
この古代神道とも言うべき山岳信仰に、仏教の行脚(僧が諸国を巡って修行すること)や道教の入山修行などが影響し、奈良時代になると山にこもって修行する人たちが増えたそうです。
紀州の葛城山(かつらぎさん)や大和の金峯山(きんぷせん)を拠点として活躍し、修験道の「開祖」とされる役行者(役小角)もそうした修行者の一人です。
彼は、薬王院の開山とされる行基とほぼ同時代の人のようですが、「優婆塞(うばそく)」と呼ばれる在家仏教信者(ざいけぶっきょうしんじゃ)として修行した人と言われています。
優婆塞とは、サンスクリット語で在家仏教信者を意味する「upasaka(ウパーサカ)」の音写語(おんしゃご)だそうです。
中国文化だけではなく、古代インド文化による日本文化への影響というのは色々なところに潜んでいますね。
平安時代になると修行者はさらに増え、密教系の人も山岳修行をしました。
平安時代の末期になると、修験道は密教や道教に加えて天文・方位・暦の学問からうまれた陰陽道の要素をも含み独特のものとして完成します。
私は、訪日外国人観光客に対して「日本文化の真髄は、「折衷(せっちゅう)」であり、最も重要な概念は「和」ということになりますね。」という具合に説明をしていますが、修験道は、ある意味で「日本文化の真髄を体現している」ともいえるのではないかと思います。
薬王院を創ったのは「行基という私度僧(モグリの僧侶)」で、薬王院を今日の繁栄に導いたのは「役行者という優婆塞(在家仏教信者)の創ったハイブリッド宗教である修験道」と言い方もできるわけです。
上記のように、修験道は平安時代に入ってから、真言宗や天台宗といった密教と深く結びつくようになりましたが、江戸時代になると、これが徳川幕府の宗教政策にも反映されました。
徳川幕府が、キリスト教を禁止した時、宗教統制の一環として、「寺請制度(てらうけせいど)」と呼ばれる制度を導入しました。
寺請制度とは、「寺請証文(てらうけしょうもん)」という仏教の檀信徒(だんしんと)(その宗旨宗派を信仰し、その寺院にお墓を持っている人)であることの証明を寺院から受けることを民衆に義務付け、「キリシタンではないことを寺院に証明させる」制度です。
寺請制度の確立によって、民衆は、いずれかの寺院を菩提寺(ぼだいじ)と定め、その檀家(だんか)となる事を義務付けられました。
いわゆる「檀家制度」ですね。
寺院により、「宗門改(しゅうもんあらため)」と呼ばれる信仰調査に基づく「宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)」が作成されました。
江戸時代には、これが、「戸籍」として機能しました。
旅行や住居の移動の際には、寺請証文が必要とされ、これが「パスポート」の代りとなりました。
各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院に一定の信徒と収入が保証される形となりました。
これが、現在に至る、「葬式仏教」の“始まり始まり”ということになるようです。
この時、「修験道は仏教に分類」され、真言宗か天台宗の何れかの宗派に属するものとされました。
即ち、明治時代より以前、江戸幕府による宗教政策の下で、修験道の法流は、大きく分けて「真言宗系の当山派(とうざんは)」と、「天台宗系の本山派(ほんざんは)」に分類されており、1881年(明治14年)以前、薬王院は修験宗の宗派としては、醍醐寺三宝院傘下の「真言宗系の当山派に属していた」わけです。
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a8/Daigoji_Sanboin_Kyoto04n4592.jpg
因みに、現在は、真言系の当山派は、醍醐寺の塔頭(たっちゅう)の一つで、代々の座主(ざす)が居住する坊(僧の住居)である醍醐寺三宝院(だいごじさんぼういん)を総本山として「真言宗醍醐派(しんごんしゅうだいごは)」になり、天台系の本山派は、聖護院(しょうごいん)を総本山として「本山修験宗(ほんざんしゅげんしゅう)」になりました。
これに天台系の金峯山寺(きんぷせんじ)を総本山とする「金峯山修験本宗(きんぷせんしゅげんほんしゅう)」を加えた三派が、現在の修験の主流と言われているようです。
ところが、「修験道の霊山」であるにも拘わらず、後述の「神仏分離令」や「修験宗廃止令」の熱り(ほとぼり)が冷めた現在でも、薬王院はこれらの何れにも属していないようです。
色々、「大人の事情」があるのでしょうね。
ところで、「日本古来の自然崇拝に基づく神道と渡来した仏教が融合した神仏習合(しんぶつしゅうごう)(神と仏とを調和させ,同一視する思想)の宗教観」により形成された紀伊山地の文化的景観は、「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界文化遺産に登録されています。
・・・ということは、「同じ類のいかがわしさ」を持ち合わせている高尾山も“世界文化遺産級”と言っても良いかもしれません?
私も、数年前に家内と、熊野古道の大門坂(だいもんざか)を“数百メートル歩いて”、平安時代の皇族・貴族の「熊野詣(くまのもうで)気分」を味わいました。
江戸時代のキリシタン弾圧後に確立された、仏教界にとって無風・退屈・平穏な日々は、明治新政府が発した神仏分離令(1868年)や、修験宗廃止令(1872年)によって打ち壊されてしまいました。
特に、薬王院を含めて、「神仏習合の極み」とも言える修験宗の各派は解体を余儀なくされ、全国の修験者は天台宗、真言宗の何れかの僧侶への所属変更等が義務付けられる事態に陥りました。
結局、1881年以降、薬王院は「真言宗智山派に宗旨替え」し、その後、真言宗智山派の関東三大本山の一つとなって今日に至っています。
神仏分離令では、「仏像をご神体として祀ること」も禁じられ、この影響により、薬王院では、一時ご本尊の名称から本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)(神は仏が世の人を救うために姿を変えてこの世に現れたとする神仏同体の説)に基づく「神仏習合上の神の称号」である「“権現(ごんげん)”」を排除すべく、飯縄大権現から「飯縄不動(飯縄不動尊)」へと改称しました。
どういうわけか、神仏習合用語として、“権現”と同様の意味を持つ“明神(みょうじん)”については、権現ほど余りうるさい“お咎め”がなかったようですが・・・
薬王院による「神仏分離令、及び修験宗廃止令対策」は、「ご本尊の改称」だけには止まらず、次のような必死の生き残り作戦を展開しました(煩悩多き私の邪推・妄想にすぎないかもしれませんが・・・)。
先ず、規制当局の目を誤魔化すために、目につきやすい山麓の一の鳥居だけ破却して、表面的に「真言宗智山派の仏教寺院」であることを装いました。
次に、仏教寺院であるという建前を強調するため、“神社まがいの飯縄権現堂”に加えて、1901年、江戸時代には、護摩堂(向かって左)・薬師堂(中央)、大日堂(向かって右)が並んで立っていた同じ敷地に「薬王院本堂」を新築し、「二頭体制」としました。
この二頭体制は、2008年にスタートしたロシアのメドヴェージェフ(大統領)、プーチン(首相)体制を彷彿とさせるものがありますね。
“飯縄首相”は、後に“大権現”の称号も回復し、高尾山の大統領となって正式に政権の座に返り咲くわけですが、強面(こわもて)の外見にも拘らず、「国際平和を誠実に希求する」日本国憲法の精神を尊重するお気持ちは強く、どこかの国の大統領とは違うようです。
続いて、1903年、実際には、一度に周ろうとすると2ヶ月かかる弘法大師所縁(ゆかり)の「四国八十八ヶ所霊場巡り」を、2日で周遊して同じ御利益(ごりやく)を得ようという、かなり「野心的、且つ“ご都合主義”的」な「四国巡礼ミニチュア版コース」を高尾山内に設けて、弘法大師所縁の真言宗の仏教寺院であることの演出に努めました。
この他、「山麓にある薬王院の別院としての不動院や、新たに設けられた弘法大師の像を含めて、全て同じ目的で設けられたのではないか?」と考えてしまうのも、すべて、心が卑しい私の邪推ではないかと思われます。
因みに、修験道で有名な出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山)は、明治の神仏分離令に従って、神社(出羽三山神社)になりましたが、やはり、有名な杉木立の中の五重塔を維持しつつ(今や、国宝ですものね!)、仁王門だけは伏見稲荷や鶴岡八幡宮で見られるような神道スタイルの「随身門(ずいじんもん)」に改修するなど、薬王院と同じく涙ぐましい対応をしています。
薬王院と同じような悩みは、全国の寺社が抱えていたんですね。
徳川家康を「東照大権現」として祀る「日光東照宮」などは、明治新政府の仇敵である徳川幕府の聖地ですから一番危ない立場にあったはずですが、宗教施設としても余りにも神仏習合の色が濃いため、物理的には分離し難く、「神仏分離をすれば、貴重な東照宮の建物は消えてなくなってしまいますよ。それでもいいの?あんたたち責任取れるの?」と、明治新政府のお役人に対して、開き直った脅しをかけ、最終的には、東照宮と二荒山神社(ふたらさんじんじゃ)、輪王寺(りんのうじ)がそれぞれの境界を決めて、二社一寺に分離してなんとか破壊を免れ、生き残ったということのようです。
やはり、宗教界でも政治力は大事のようです。
今や、「日光の社寺」として世界文化遺産としても登録されているわけですから、本当によかったですね。
寡聞にして、東照大権現を「東照不動」に改称したといった類の話があったかどうかは知りませんが、東照大権現の神号は、江戸時代の初期に、徳川家康が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)から賜ったという経緯もありますし、天皇中心の政治体制を作り上げようとしていた明治新政府も、流石にこれに難癖をつけるわけにはいかなかったでしょうね。
因みに、前述の「随身門」というのは、仏教寺院における仁王門の神道バージョンのようなもので、一般的には、雛壇に並んでいる、“通称”「左大臣」、「右大臣」のようなコスチュームに身を包む平安時代の武官を、仁王門における二人の金剛力士の代わりにガードマンとして起用するものです。
よく見ると、日光東照宮の陽明門も、随身が門番を務めています。
サトウハチロー作詞による童謡「うれしいひな祭り」の中に「すこし白酒めされたか、赤いおかおの右大臣」という歌詞がありますが、実際に、ひな壇に並んでいるのは、左大臣、右大臣ではなく、左近衛中将(さこのえのちゅうじょう)と右近衛少将(うこのえのしょうしょう)という左大臣、右大臣よりは身分の低い天皇を守る近衞府の武官というのが正しい認識のようです。
鶴岡八幡宮も、明治以前は「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれて、仁王門もあり、御神体は、地蔵菩薩蔵のような外見の「僧形八幡神(そうぎょうはちまんじん)」だったようです。
しかし、当時は、あの鶴岡八幡宮ですら神仏分離令の余波ともいうべき「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」(仏教寺院・仏像・経巻(経文の巻物)を廃棄し、仏教を廃すること)の大波に洗われて、仁王門は破却され、御神体は打ち捨てられてしまったようです。
では、現在、鶴岡八幡宮に祀られている御神体は一体何だろうと、以前、鶴岡八幡宮に問い合わせたことがありますが、俗世間を代表するような私が納得する回答はもらえませんでした。
私は、長年航空機ファイナンス・ビジネスに携わってきましたが、若かりし頃、その当時ナショナル・フラッグ・キャリアと呼ばれた日本の航空会社に、神宮寺(じんぐうじ)さんというお名前の財務担当者がいらっしゃいました。
その当時は、無知ゆえに、神宮寺さんの前で「お寺なのか、神社なのかはっきりしない名前だな。」などと、内心で大変無礼なことを考えてしまった恥ずかしい記憶があります。
お忙しい身の上で、良く短期間にこれだけの資料収集と考察を纏められておられると只々感心致しました。
短期間ではないんですよ。通訳ガイドの資格をとった10年以上前からの積み重ねです。
羽黒山の五重の塔は威厳があっていいですね。行ってみたいです。天皇御陵は近いので、散歩がてらに行きたいです。