744年に薬王院が創建された時、開山本尊として薬師如来(Bhaishajyaguru:バイシャッジヤグル)が祀られました。
しかし、一旦荒廃した薬王院が14世紀後半になって京都の真言宗寺院である醍醐寺の僧、俊源大徳(しゅんげんだいとく)により再興されたとき、修験道の霊山として有名な北長野の飯縄山(いづなやま)の飯縄神社より、そのご祭神の御霊(みたま)を勧請(かんじょう)(離れた場所にいる神や仏に対して、こちらに来てくれるように祈り願うこと)してもう一つのご本尊として祀りました。
敢えて、「ご本尊として祀った」という言い方をしましたが、ひょっとすると、当初は、薬王院の「薬師如来の守護神」というお立場だったのかも知れません。
飯縄神社では、ご祭神として日本の神話に登場する天神、意富斗能地尊(おおとのじのみこと)(大戸之道尊)と呼ばれる男神(おがみ)を「飯縄大明神(いづなだいみょうじん)」として祀っているとのことで、ご祭神は「飯縄大権現(いづなだいごんげん)」とも呼ばれています。
飯縄神社の社殿に御神体として祀られ、礼拝の対象になっているのは「御神鏡(ごしんきょう)」とのことです。
因みに、明神も権現も神仏習合上の用語で神様を意味します。
神様ですから、本来目に見える形はありませんが、修験道の宗教施設と化した薬王院に勧請されるのに際して、大日如来の化身である不動明王と四人のヒンズー教の神々とを合成したイメージの異形の仏像(神像)として造形され、これをご本尊(御神体)として祀ったということのようです。
つまり、飯縄大権現については、飯縄神社に祀られている神様が、高尾山に来て仏様に変換されてしまったような趣があります。
より正確には、神仏習合により、仏教の偶像崇拝の影響下で、神像(御神体)として造形されたと言った方が良いかもしれません。
ちょっと胡散臭い感じもありますが、ある意味では日本文化を象徴している事象の一つとも言えそうです。
私は、訪日外国人観光客に対して「日本文化の真髄は、「折衷」であり、最も重要な概念は「和」ということになりますね。」という具合に説明をしていますが、飯縄大権現は、そういう意味では、日本文化の真髄を体現しているともいえるのではないかと思います。
実際、彼らに、「飯縄大権現は、日本の伝統的な得意技である原材料を輸入して加工して製品化したり、舶来品を日本風にアレンジしたりという日本の伝統文化の中で生まれたものだ」というような「テキトーな説明」をしても、笑いながらも納得してくれている?ようです。
高尾山の1号路を登ってゆくと108段の石段を含む山頂に向かって左側の「男坂(おとこざか)」と、なだらかな登山道である山頂に向かって右側の「女坂(おんなざか)」の分岐点に差し掛かります。
煩悩の多い人は、左側の108段の石段を登って、108の煩悩を消し去る努力が必要ということのようです。
男坂と女坂の間に位置する一段高い場所にあるのが「有喜苑」です。
そこには、被写体としては魅力的な白亜のストゥーパ(仏舎利塔)の他、柴燈護摩壇(さいとうごまだん)と呼ばれる屋外のお護摩祈祷のための祭壇、日本百観音御砂踏霊場(にほんひゃっかんのんおすなふみれいじょう)などがあります。
有喜苑の柴燈護摩壇などで行われる柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)は、江戸時代以前には薬王院も所属していた真言宗系の修験道である「当山派(とうざんは)」修験道の「派祖」とされる理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう)が創始したとされています。
この柴燈護摩壇の前には、高尾山の宗教上の支配者である飯縄大権現のブロンズ像があります。
よくよく見ると、飯縄大権現の像の前には、飯縄神社に御神体として祀られている雲型台座(くもがただいざ)に載った御神鏡のレプリカと思われるものが据え付けられています。
因みに、飯縄大権現が乗っている狐が咥(くわ)えているのは、元々はヒンズー教の神である帝釈天(たいしゃくてん)の武器であり、お護摩祈祷(ごまきとう)などで使われる煩悩を打ち砕く金剛杵(こんごうしょ)です。
前述の通り、飯縄大権現は、大日如来の化身である不動明王と四人のヒンズー教の神々とを合わせたイメージの異形の仏像(神像)として造形されたと言われています。
ヘアスタイルは、不動明王と同じく、頭髪を束ねて左側に“おさげ”のように垂らしています。
不動明王のように右手に剣を左手に羂索(けんさく:ロープ)、炎の光背(こうはい)を持っています。
不動明王像を祀る場合、通常、脇侍は不動明王のボディガードである三十六童子(さんじゅうろくどうじ)のうちの矜羯羅童子(こんがらどうじ)(Kimkara:キムカラ)(向かって右)と制咜迦童子(せいたかどうじ)(Cetaka:ツェツァガ)(向かって左)というのが相場ですが、飯縄大権現の場合は、脇侍は、阿吽形の大天狗(向かって右)と小天狗(向かって左)となっています。
三十六童子の像は、薬王院の表参道である1号路沿いにも見られますし、薬王院本堂に向かって左手の飯縄権現堂に登る石段の途中、赤い鳥居の手前にもありますから、興味がある方は、次回高尾山に登ったときに注意して見て下さい。
四人のヒンズー教の神々は、迦楼羅天(かるらてん)(Garuda:ガルダ)、荼枳尼天(だきにてん)(Dakini:ダーキニー)、弁財天(べんざいてん)(Sarasvati:サラッスワティー)、歓喜天(かんぎてん)(Ganesh:ガネーシャ)です。
飯縄大権現は、迦楼羅天のように、鳥のような頭と黒い翼を持っています。
インドネシアには、迦楼羅天の名前に因んだ社名の航空会社があるのをご存じの方も多いでしょう。
インドネシアの国章は神の鳥「ガルーダ」だそうです。
飯縄大権現は、荼枳尼天のように白い狐に乗っています。
インドでは、死肉を食べるジャッカルであったものが、中国や日本にはジャッカルがいないので、狐で代用されることになったようです。
よくみると飯縄大権現の手足には蛇が絡みついていますが、これは弁財天との関係を示しています。
蛇は弁財天のお使いです。
飯縄大権現は、豊穣の神である歓喜天の荒ぶる心を持っているとされています。
この歓喜天との関係についての説明は、目に見えない心のことだけに分かりにくいですね。
歓喜天は、時には象の頭を持つ男神(おがみ)として描かれますが、ここでは、象の頭を持つ二人の男女の神が立って抱き合っている姿として描かれた双身歓喜天(そうしんかんぎてん)像となっています。
片方は、元来荒ぶる神である歓喜天の欲望を鎮めるべく、美女に化けて歓喜天をメロメロにさせた十一面観音であるといわれています。
頭部に冠を付けている方が十一面観音の化身で、その十一面観音に抱擁され、足を踏まれて大人しくさせられている方が、本来の歓喜天です。
このカップルも「かかあ天下」のようですね。
ちょっとエロチック?な像なので、高尾山でも秘仏とされています。
不動明王と、これら四人のヒンズー教の神々は、高尾山の各所や薬王院の境内の中に、それぞれ独立してお祀りされています。
不動明王は、ケーブルカーの清滝駅近くの不動院、琵琶滝(びわたき)の水行場(みずぎょうば)近くの琵琶滝不動堂、江戸時代には、現在の薬王院の本堂のある位置にあった護摩堂(ごまどう)の建物を移築した奥之院不動堂に、それぞれ祀られています。
その他の神様については、歓喜天は、薬王院本堂の側にある聖天堂(しょうてんどう)に、荼枳尼天は、飯縄権現堂の側にある福徳稲荷社(ふくとくいなりしゃ)に祀られています。
また、迦楼羅天は、天狗の本地仏であるという考え方をとれば、飯縄権現堂の側にある天狗社(てんぐしゃ)に祀られているとも考えられ、弁財天は、大僧坊(だいそうぼう)奥の福徳弁財天(穴弁天)という弁天窟(べんてんくつ)にお祀りされています。
飯縄大権現は、武田信玄や上杉謙信などの戦国大名の信仰を集め、中でも上杉謙信は自分の兜の前立てに飯縄大権現を飾ったことで知られています。
上杉謙信は生涯独身でしたが、それは飯縄の法(いづなのほう)の行者(ぎょうじゃ)としての修行の一環であったとも言われ、足利幕府管領家(あしかがばくふかんれいけ)の細川政元(ほそかわまさもと)も同様の理由で独身を貫いたことで知られています。
上杉謙信は、毘沙門天(びしゃもんてん)(Visravana:ヴァイッシュラ・ヴァナ)を戦いの神として尊崇し、軍旗には、毘沙門天の「毘」の一字を使用して、NHKの大河ドラマなどに登場するときは、毘沙門天に祈る姿が描かれることが多いという印象です。
女性には興味がなかったのかも知れませんが、神様については、毘沙門天の他にも、摩利支天(まりしてん)(Marici:マーリーチー)や飯縄大権現にも手を出すなど、そちらの方面では、かなり“お盛んだった”ようです。
多くの文献で見られるように、私はずっと「飯綱大権現」と思っていましたし、「いいづな」と読んできましたので、今回のブログを拝見して辞書を引きました。
長野県の修験道の山の名も「飯綱山」とも「飯縄山」とも書くようで、また、「いづな」とも「いいづな」とも読むようで、大変に勉強になりました。
因みに、イタチ科の「イイズナ」も「イズナ」から転じての名であるとのことですから、「いづな」が元の名であったのかもと思いました。
薬王院のウェブサイトや薬王院の幟旗にも「飯縄大権現」の文字が使われていますので、それで統一させてもらいました。薬王院のウェブサイトにも「飯綱山」という表現があり、どうしてもこれでなければならないというルールはないと思いますが・・・