真言宗のような「密教」では、仏・如来が教導すべき対象である衆生(しゅじょう)(生きとし生けるもの)の性質、民度等に合わせて三種類の姿を取るという、「三輪身(さんりんしん)」という考え方があるそうです。
①宇宙の真理や理想像としての悟りの境地を体現した「仏・如来として顕(あらわ)れる」のが、「自性輪身(じしょうりんしん)」
②その教え、真理を衆生に説き、慈悲の心で教化(きょうけ)、救済するために「菩薩として顕れる」のが、「正法輪身(しょうぼうりんしん)」
③その菩薩ですら教化し得ない煩悩が強すぎる導き難い相手を教化、説伏(せっぷく)するために忿怒相(ふんぬそう)をとって「明王として顕れる」のが、「教令輪身(きょうりょうりんしん)」
とする考え方で、ここでは、「輪」は、全体を形成するための要素とかグループという意味で使われているようです。
結論から言えば、私を含めて、「民度の低い、煩悩まみれの凡人を脅しつけながら相手にしてくれるのは、強面(こわもて)の教令輪身たる明王のみ」ということになります。
更には、『不動明王のアバター(化身)である飯縄大権現(いづなだいごんげん)をご本尊としてお祀りする薬王院のある高尾山は「煩悩まみれの凡人」が目指すべき、理想の霊山の一つ』ということになろうかと思います。
弘法大師空海は、上記の「三輪身」説を、東寺(教王護国寺)の「講堂」内で、二十一体の仏像で立体曼荼羅(りったいまんだら)として表現しているとされています。
東寺の立体曼荼羅は、「講堂」だけではなく、有名な「五重塔」にも「心柱(しんばしら)(塔の中心にある柱)」を大日如来に見立てて表現されており、私も5年前に、「初層の特別拝観」を利用して見学したことがあります。
密教には、「お経の文字面だけでは仏の教えは伝えられない」という考えが基本にあるので、立体曼荼羅も弘法大師による「仏の教え」を伝えるための工夫の一つのようです。
これに対して、それ以外の顕教(けんきょう)では、「お経などで明らかに示された内容」で、仏が悟りを開いた過程、方法などを説明することを基本としているといわれています。
弘法大師に言わせると、真の意味で密教といえるのは真言宗のみということになるようです。
ビジネスを行う上でも、マニュアルの文字面だけでは伝えきれないような知見やノウハウもあるように思われますし、先達・教育者として、弘法大師の工夫は素晴らしいと思います。
しかしながら、弘法大師空海のライバル的存在で、天台宗の開祖であり、伝教大師として知られる最澄の開いた比叡山延暦寺の方が、後世、特に、鎌倉時代には、より多くの著名な高僧を輩出したように思われるのは皮肉です。
法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、一遍上人(時宗)、栄西禅師(臨済宗)、道元禅師(曹洞宗)、日蓮聖人(日蓮宗)など、日本仏教の各宗の祖師の多くが比叡山で学んだという事実は否定できません。
顕教的なアプローチも、弟子や後に続く仏道修行者の自由度を高め、独創的な発想を促す等のプラスの面があるのかも知れませんね。
東寺(教王護国寺)「講堂」内の立体曼荼羅の模式図は以下の通りです。
先ず、中央に、大日如来(だいにちにょらい)(Mahavirocana:マハバイローチャナ)を中心とした如来のグループ(五智如来(ごちにょらい))を配置します。
中央:大日如来、東方:阿閦如来(あしゅくにょらい)(Aksobhya:アクショ ービヤ)、南方:宝生如来(ほうしょうにょらい)(Ratnasaṃbhava:ラトナサンバヴァ)、西方:阿弥陀如来(Amitabha:アミターバ)、北方:不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)(Amoghasiddhi:アモ ーガシッディ)
次に、(「左上右下の原則」に従って)向かって右には、菩薩のグループ(五大菩薩)を配置します。
中央:金剛波羅蜜菩薩(こんごうはらみつぼさつ)(Vajraparamita:ヴァッジュラパーラミター)(大日如来の正法輪身)、東方:金剛薩埵菩薩(こんごうさったぼさつ)(Vajrasattva:ヴァッジュラサットワ)(阿閦如来の正法輪身)、南方:金剛宝菩薩(こんごうほうぼさつ)(Vajraratna:ヴァッジュララトナ)(宝生如来の正法輪身)、西方:金剛法菩薩(こんごうほうぼさつ)(Vajradharma:ヴァッジュラダルマ)(阿弥陀如来の正法輪身)、北方:金剛業菩薩(こんごうごうぼさつ)(Vajrakarma:ヴァジュラカルマ)(不空成就如来)の正法輪身)
更に、(「左上右下の原則」に従って)向かって左には、明王のグループ(五大明王)を配置します。
中央:不動明王(Acalanatha:アチャラナータ)(大日如来の教令輪身)、東方:降三世明王(ごうざんぜみょうおう)(Trailokyavijaya:トライローキヤ・ヴィジャヤ)(阿閦如来の教令輪身)、南方:軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)(Kundali:クンダリー)(宝生如来の教令輪身)、西方:大威徳明王(だいいとくみょうおう)(Yamantaka:ヤマーンタカ)(阿弥陀如来の教令輪身)、北方:金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)(Vajrayaksa:ヴァッジュラヤクシャ)(不空成就如来の教令輪身)
五智如来、五大菩薩、五大明王の「オールスターキャスト」による立体曼荼羅(https://toji.or.jp/smp/ten/)は、弘法大師が、真言密教の根本道場とした京都の東寺「講堂」にあるものの他は、寡聞にして存じ上げません。
東寺のパンフレットに、「身は高野 心は東寺に おさめをく 大師の誓い 新たなりけり」とあり、これは、弘法大師空海が、晩年に、東寺「講堂」の立体曼荼羅の完成を見ないまま、高野山に身を移した際に詠んだ歌をもとにした御詠歌(一般信者が唱える歌)のようです。
高野山も弘法大師空海が開いた「真言密教の根本道場」といわれています。
両者の区別が今一つわからないので、高野山を訪ねた時、金剛峯寺で出会ったお坊さんに、高野山金剛峯寺と東寺との違いについて質問したところ、「高野山は主に修行の場で、東寺は主に学究の場」ということでした。
もっとも、同じ質問を東寺のお坊さんにしたら、同じ答えが返ってくるかどうかについては確信は持てませんが・・・
東寺「講堂」の五智如来、五大菩薩、及び五大明王は、周囲を固める6名の屈強なガードマン達に守られています。
先ず、左右を守る梵天(ぼんてん)(Brahman:ブラフマン)及び、帝釈天(たいしゃくてん)(Indra:インドラ)です。
東寺「講堂」の立体曼荼羅における梵天と帝釈天の立ち位置を、「左上右下の原則」に当てはめて考えると、梵天は、「武闘派」の帝釈天より格上であることが分かります。
仏の世界も、シビリアンコントロールということなのでしょう。
ご両者とも、東大寺三月堂(法華堂)や唐招提寺などで見られる平安時代より前の時代に作られた温和な中国の文官風の仏像と比べると、「インド色が強い」ユニークなものとなっています。
https://www.toshodaiji.jp/about_kondoh.html
東寺「講堂」の梵天、及び帝釈天の像のデザインは、中国語のみならず、(梵天が作ったといわれる)サンスクリット語(梵語)にも堪能であったといわれる「弘法大師空海の独自の解釈によるもの」だそうです。
梵天の持物は、鉾(ほこ)、払子(ほっす)(毛や繊維を束ねて柄をつけた法具)、蓮華(れんげ)という組み合わせで、「文武両道」という雰囲気です。
鵞鳥(がちょう)に乗った梵天より、象に跨った「武闘派」の帝釈天の方が、だいぶ格好良く見えると思うのは私だけでしょうか?
東大寺三月堂(法華堂)や唐招提寺に見られる中国の文官風のものと比較してみましたが、時代が下った鎌倉時代の日蓮聖人の手によるものとされる柴又帝釈天の板本尊のデザインは、これらのいずれとも印象が異なるものです。
https://www.city.katsushika.lg.jp/history/history/2-3-3-132.html
東寺「講堂」の帝釈天像が右手に持っているのは、金剛杵(こんごうしょ)(vajra:ヴァッジュラ)と呼ばれる武器です。
弘法大師空海の坐像のデザインも、左手に108の煩悩を象徴する数珠、右手には煩悩を打ち払う金剛杵というのがお決まりになっているようです。
金剛杵は、元来、帝釈天の使う武器だったようですが、「煩悩を打ち払う菩提心(ぼだいしん)」のシンボルとして密教法具に取り入れられたわけです。
中央に柄があり、尖った部分は槍の刃で、刃の数により名称が異なり、刃が1本のものを独鈷杵(どっこしょ)、3本のものを三鈷杵(さんこしょ)、5本のものを五鈷杵(ごこしょ)と呼んでいます。
私もキーホルダーにミニチュアの五鈷杵をつけていますが、未だ煩悩を打ち払うことが出来ずにいます。
余談ですが、八王子に、俳優の竹中直人が多摩美術大学の学生だった頃から贔屓(ひいき)にしている、Indra(インドラ)(http://indra.sakura.ne.jp/)という名前のインドカレーのお店があります。
私も、店主と同級生だったという亡くなった従兄弟の紹介で行ったことがありますが、本格的でお薦めです。
次に、最強の武神・帝釈天を直属の上司として、四方を固めるのが、四天王(東方:持国天(じこくてん)(Dhrtarastra:ドリタラーシュトラ)、南方:増長天(ぞうちょうてん)(Virudhaka:ヴィルーダカ)、西方:広目天(こうもくてん)(Virupaksa:ヴィルーパークシャ)、北方:多聞天(毘沙門天)(たもんてん(びしゃもんてん))(Vaisravana:ヴァイッシュラヴァナ))です。
「薬王院の四天王門で警備を担当する神々」の稿でご紹介した通り、「四天王像配置の原則」に則って、前面の、向かって右に配置された持国天から始まって、時計回りに、「じ・ぞう・こう・た(地蔵買うた)」の順番で並んでいますね。
尚、東寺の立体曼荼羅には含まれていませんが、密教における「明王」中の例外として、「孔雀明王(くじゃくみょうおう)(Mahamayuri:マハーマユーリ)」のみは、忿怒でなく慈悲を示す菩薩形をとっています。
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9d/Kujaku_Myoo_edit.jpg
孔雀明王は、人間の煩悩の象徴である「三毒(さんどく)(貪(とん:欲)・瞋(じん:怒り)・癡(ち:無知))」を喰らって仏道に成就せしめる功徳(くどく)がある仏とされています。
孔雀明王は、元々、「コブラやサソリの毒にも耐性があり、悪食(あくじき)でこれらを捕食してしまうこともあるという孔雀」に、神秘的な力を感じた古代インドの人々の想像力が作り上げたヒンズー教の神様のようです。
即ち、仏教において克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩は、毒に例えて三毒といわれます。
普段、心に湧き起こる様々な悪感情も大きく分ければ貪・瞋・癡の3つの組み合わせによるものだそうです。
高尾山の有喜苑には、仏舎利を納めたという白亜のストゥーパがありますが、その前に、「迷散筒(めいさんとう)」と呼ばれる石製の筒のようなものがあります。
どうも、これは、孔雀明王に代わって、貪・瞋・癡という三毒に対する解毒剤(げどくざい)の役割を果たす装置のようです。
神聖なストゥーパを前に、三毒を解毒し慈しみの心を育てるために、高尾山の有喜苑を訪れた折には、迷散筒を回転させ、迷いを散らし、至極簡単に、孔雀明王の功徳を手にして頂きたいと思います。
煩悩多き凡人にとっても、高尾山では、なんでも簡単です。