天武天皇の血統は仲間はずれ?

今回は、前回の「武蔵陵墓地の上円下方墳は天智天皇陵がモデルの神道スタイル?」の稿の続きで、高尾山の話からは脱線しますが、ご容赦下さい。

明治維新で神道が国教とされる以前、即ち、孝明天皇以前の葬儀の多くは仏式で行われたと言われています。

そして、第38代の天智天皇以降の歴代天皇(但し、天武系天皇8代7名(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、(称徳))(称徳天皇は孝謙天皇の重祚(一度くらいを退いた天皇が再び即位すること)によるもので、同一人物)を除く)の「位牌」は、全て「御寺(みてら)」と呼ばれる京都東山の「泉涌寺(せんにゅうじ)」(URL : https://mitera.org/)の霊明殿(れいめいでん)に祀られているそうです。

泉涌寺は、京都の洛南に位置していますから、観光するには、秋の紅葉や著名な作庭家「重森三玲(しげもりみれい)」の手による方丈庭園で有名な「東福寺」や、千本鳥居の「伏見稲荷大社」等と組み合わせてお参りすると効率的ではないかと思います。

泉涌寺(京都府京都市東山区)

仏教の信仰の深化に伴い、歴代の天皇は荼毘(だび)に付された(火葬)場合も多く、第41代の持統天皇から始まって「歴代天皇の約3分の1が火葬」により埋葬されているそうです。

一方で、江戸時代の初期からは一貫して土葬となっています。

明治以降は、葬儀は神道式に改められ、埋葬方法も「仏式と考えられる火葬」は採用されることはなく、江戸時代から一貫して土葬による埋葬が続いています。

・・・と言っても、土葬か火葬かで神式か仏式かを区別するのは、必ずしも正確ではなく、土葬というのは儒教の影響という面も無視できません。

特に、江戸時代初期からの土葬は、神道というよりは、徳川幕府が「士農工商」に代表される封建秩序に倫理的根拠を与えるべく導入した儒学の一派である「朱子学」の影響であろうと思われます。

儒教大国であるお隣の韓国では、当然、土葬が主流ですが、最近は墓地用の土地不足という事情もあり、火葬も増えてきたようです。

2019年に譲位なされた上皇上皇后両陛下も、「神式か仏式か」ということではなく、「“御陵の簡素化”という観点から火葬をご希望」という趣旨が宮内庁からも発表(下記URL参照)されています。

https://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/goryou/pdf/okimothi.pdf

イスラム教もキリスト教も土葬が一般的なようですが、火葬が仏式という分類は、お釈迦様が荼毘に付されたということからも、動かし難いところでしょうね。

それにしても、「天武系天皇8代7名の位牌だけが泉涌寺に祀られていない」というのは不思議ですよね。

これについて、作家の井沢元彦氏は、同氏の著作、「逆説の日本史」の中で、

①朝鮮半島への派兵を敢行し、663年の白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に破れた天智天皇(反・新羅派)の死後に、天武天皇(親・新羅派)として即位した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、実は、天智天皇の弟ではなく、(父方の血統等の事情で)本来であれば正当な皇位継承者ではなかった。

②しかしながら、彼は、天智天皇を暗殺し、しかる後、672年、「壬申の乱(じんしんのらん)」という「易姓革命(えきせいかくめい)」により天智天皇の息子である大友皇子(おおとものおうじ)をも殺害し、皇位を簒奪(さんだつ)した。

という趣旨の仮説を立てて、説明しています。

「易姓革命」というのは、天の命を受けて徳をもって人民を支配する王者(君主)の徳がなくなれば天のり(あらたまり)別のの王者(君主)にえる(かえる)という考えで、要するに、「臣民が王者(君主)に替わって権力の座につくことを正当化する」中国古来の政治思想です。

天孫降臨から始まる「万世一系」の皇統(天皇の血統が永遠に変わらず続くこと)が建前の日本にはそぐわない考えですね。

確かに、天武天皇は、「天智天皇時代に行われた遣唐使派遣」を打ち切り、「朝鮮半島の支配を巡って唐と対立し始めた新羅」との提携を深める、という「外交方針の大転換」を行なったとされています。

天武天皇は、父方に新羅系の血筋が入った方というような可能性もあるということでしょうか?

遣唐使の派遣が再開され、唐との国交の修復が実現することについては、702年、持統天皇の孫の文武天皇の時代まで待たなければなりませんでした。

要するに、井沢氏の主張は、「易姓革命」の性格を持つ「壬申の乱」により君主の座についた天武系の血筋が断絶し、天智系の血筋に戻った時点で、平安京遷都を推進した天智系の桓武天皇が、天武天皇以降、天武系の血筋が絶えるまでの天皇八代7名の位牌だけを泉涌寺から排除することにより、「天智系の皇統の復活」を演出したのではないかということのようです。

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天皇家系図38代から50代(第39代弘文天皇と第47代淳仁天皇は、明治時代になってからの追謚)

「天武系排除説」の真偽の程は分かりませんが、説得力はありますよね。

現行の皇室典範(こうしつてんぱん)でも、皇位の承継は父方に天皇の血を引く「男系男子」のみと定められていますが、壬申の乱が易姓革命であったとすれば、天武系天皇8代7名は、この定義からも外れてしまいます。

持統天皇も、父方に天皇の血を引く「男系女子」となって、あくまでも「つなぎ」の天皇という位置づけです。

今は、「象徴天皇制」の時代ですから、個人的には「愛子天皇」でも宜しいんじゃないかとは思いますが・・・

天武天皇の勅命により舎人親王(とねりしんのう)が中心になって編纂したといわれる「日本書紀」では、天智天皇の墓所も明らかにはされていないようですが、天智天皇の墓所は京都最古の古墳と言われる天智天皇山科陵(てんちてんのう やましなのみささぎ)であり、天智天皇の位牌が祀られている泉涌寺とは別に、天智天皇と大友皇子は、大友皇子の子、与多王(よたおう)によって創建されたといわれる園城寺(おんじょうじ)(別名:三井寺(みいでら))(滋賀県大津市)に祀られ、そこが彼らの「鎮魂施設」ともなっているようです。

しかも、何故か新羅善神堂(しんらぜんしんどう)の御祭神である新羅明神(しんらみょうじん)が、園城寺(三井寺)の守護神となっています。

天智天皇山科陵(京都府京都市山科区)
園城寺 金堂(滋賀県大津市)
新羅善神堂(滋賀県大津市)

これについても、井沢元彦氏は、「親・新羅派」の天武天皇としては、朝鮮半島からの渡来神ともいわれる「新羅明神」によって「反・新羅派」の天智天皇、大友皇子の「怨霊の封じ込め」を狙ったのではないかという趣旨の持論を展開しています。

余談ですが、「鎌倉殿の13人」では大泉洋(おおいずみよう)さんが演じる「鎌倉殿(源頼朝)」のご先祖の「源義家(みなもとのよしいえ)」は、京都の「石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)」で元服したことから、通称「八幡太郎義家(はちまんたろうよしいえ)」と呼ばれていますが、その弟の一人である「源義光(みなもとのよしみつ)」は、「新羅善神堂」で元服したことから、通称「新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)」と呼ばれ、「鎌倉殿の十三人」では、その子孫の「武田信義(たけだのぶよし)」を八嶋智人(やしまのりと)さんが演じていますね。

長い前置きに加えて、話も脱線して、当初書こうと思っていた内容を網羅する前に文字をずいぶん費やしてしまいました。

続きは次回の投稿に譲りたいと思います。

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