「武蔵陵墓地の上方下方墳は天智天皇稜がモデルの神道スタイル?」の稿でも触れた通り、初期の仏教では「偶像崇拝」というコンセプトは存在しませんでした。
お釈迦様の遺骨 (舎利 )を納めた「ストゥーパ(仏舎利塔)」 や、その周辺に設けられた「仏伝図(釈迦の伝記に基づいて、その生涯のさまざまな出来事をシンボル化して描いた絵画や浮彫)」等が礼拝の対象だったといわれています。
実は、高尾山の有喜苑(ゆうきえん)には、「ストゥーパ」と「仏伝図」の両方が設けられています。
両方とも新しく作ったもので、歴史的価値はありませんけどね。
しかも、「釈迦仏伝四相図(しゃかぶつでんしそうず)」と称される「仏伝図」は、シンボル化されたものではなく、わかりやすいイラスト付きです。
・・・ということは、「偶像崇拝」の謗(そし)りは免れず、タリバンのメンバーが見たら目を吊り上げるかも知れません。
左から、「釈迦生誕(しゃかせいたん)」、お釈迦様が生まれたのは紀元前463年という説が有力です。
私は、忘れないように、自分のファースト・ネームを盛り込んだ語呂合わせで、「シローさん(463)」と記憶しています。
お釈迦様は、ネパールの「ルンビニー(Lumbini)」にある「無憂樹(むゆうじゅ)」の木の下で生まれ、生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と唱えたという伝説がありますが、ここではその場面が描かれています。
簡単に言えば、「この世で自分が一番偉い」というようなことを言っているわけですが、外国人観光客向けには、「お釈迦様は、生まれた時は相当生意気なベイビーだったらしい。」と説明しています。
現在では、一般に、4月8日を「灌仏会(かんぶつえ)(花まつり)」として、釈迦生誕を祝っていますが、高尾山でも、有喜苑の「ストゥーパ」にて「花まつり」の法要が営まれます。
次に、「降魔成道(ごうまじょうどう)」、即ち、お釈迦様が35歳で、インドの「ブッダガヤー(Buddha Gaya)」にある「菩提樹(ぼだいじゅ)」の木の下で悟りを開いた瞬間です。
29歳の時に、釈迦族の王子という地位も名誉も財産も、更には妻子も捨てて出家をし、苦行を続けていたお釈迦様ですが、どれほど苦しんでも、なかなか悟りの境地に達することは出来ません。
そして、悟りを開く7日前まで、五人の修行仲間とともに厳しい断食による修行を続けていましたが、断食により得られるものはないとの判断に至り、牛飼いの娘「スジャータ(Sujata)」によるミルク粥(ヨーグルトのようなもの)の施(ほどこ)しを受けて断食を中断しました。
これを見て、五人の修行仲間は、「お釈迦様は、厳しい修行に耐えきれずドロップアウトした」と考えて、彼のもとを去りました。
このお釈迦様にミルク粥を施した牛飼いの娘の名前をとったコーヒーミルクのブランドをご存知でしょうか?
名古屋製酪(なごやせいらく)というメーカーのものですが、私が大学生の頃に発売された「褐色の恋人スジャータ」という商品名のコーヒーミルクが大ヒットしたせいか、現在では、グループを統括する持株会社名を「スジャータめいらく」としています。
「降魔成道」の図では、悪魔が、お釈迦様の邪魔をしようと、彼を誘惑する三人の半裸のセクシー美女を送り込んできています。
一方で、お釈迦様の方はといえば、厳しい修行で体力が落ちてヘロヘロ状態になっていたと思われますので、とても「そんな気」にはなれなかったんじゃないでしょうか?
「降魔」とはこれらを退(しりぞ)けることで、「成道」とは悟りを開くことです。
日本独自の伝承では、お釈迦様の成道を12月8日とし、一般的に、この日に法要を行っていますが、高尾山でも、有喜苑の「ストゥーパ」で、「成道会(じょうどうえ)」の法要が営まれています。
左から三つ目は、「初転法輪(しょてんぽうりん)」、即ち、インドの「サールナート(Sarnath)」で、お釈迦様が、初めて、以前の五人の修行仲間に教義を伝授した場面です。
サールナートの漢訳は、「鹿野苑(ろくやおん)」で、五人の修行仲間に加えて、お釈迦様の説法を聞いている沢山の鹿も描かれています。
最後は、「涅槃(ねはん)(釈迦入滅(しゃかにゅうめつ)」で、お釈迦様は80歳、インドの「クシナガラ(Kushinagar)」にある「沙羅双樹(さらそうじゅ)」の木の下で、「頭を北」に、「顔を西」に向けて、臨終の時を迎えています。
釈迦生誕の「ルンビニー」、降魔成道の「ブッダガヤー」、初転法輪の「サールナート」、涅槃(釈迦入滅)の「クシナガラ」は、仏教の四大聖地とされています。
釈迦生誕の地にあった「無憂樹」、降魔成道の地にあった「菩提樹」、涅槃(釈迦入滅)の地にあった「沙羅双樹」は、インドでは「三大聖木」とされているそうです。
高尾山の薬王院の境内にも、鐘楼のそばに「菩提樹」の木があり、夏場に黄色の花を咲かせます。
しかし、インドのものとは多少種類が違うようで、恐らくは、その下で瞑想に耽(ふけ)っても悟りを開くことは困難ではないかと思われます。
お釈迦様のご遺体は弟子達により荼毘(だび)に付され(火葬にされ)遺骨は八分割され、それぞれ各地のストゥーパに祀られたといわれています。
日本では、「涅槃(釈迦入滅)」の日を2月15日とし、一般的に、この日に法要を行いますが、高尾山でも、有喜苑の「ストゥーパ」で「涅槃会(ねはんえ)」の法要が営まれています。
ご覧の通り、有喜苑の「涅槃図(釈迦入滅の図)」では、お釈迦様は、その死を悼む「十大弟子」、「菩薩」や「天」の他、沢山の動物達にも取り囲まれています。
一説には、お釈迦様ご危篤の知らせを聞いて、52種類の動物達が駆けつけて来たということです。
そして、先着12種類が「十二支(じゅうにし)(子(鼠)・丑(牛)・寅(虎)・卯(兎)・辰(龍)・巳(蛇)・午(馬)・未(羊)・申(猿)・酉(鳥)・戌(犬)・亥(猪)の総称)」に選抜されたことになっています。
「十二支」には、想像上の動物である「龍」が入っていますが、一説によれば、「お釈迦様の出身部族であるシャカ族のトーテム(守護獣)が「龍(Naga:ナーガ)」だったので、特別出演?が許されたとのことです。
「八大龍王は親子で薬王院に貢献?」の稿でご紹介した「Naga Raja(ナーガ・ラージャ)(文字通りの意味は、蛇神の王)」と呼ばれるヒンズー教の神々は、仏教に取り入れられ、中国では、中国古来の龍神信仰と習合して「龍王」となり、薬王院の「八大龍王堂」にも見られる通り、日本でも「八大龍王」として信仰されています。
いずれにしても、十二支は、古代中国の哲学思想である陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)から派生したものとされていますので、元来、古代インドにおける釈迦入滅時のエピソードに「十二支」を組み合わせること自体に無理がありそうですし、中国の神獣・霊獣である龍が登場することからも、後世、中国ででっち上げた話だと思われます。
以下は、私が聞きかじった与太話です。
最初にお釈迦様ご危篤の知らせを聞いた歩みの遅い牛が、道中、他の動物にも知らせながらお釈迦様の臨終の場にノロノロと急いだそうです。
牛から、その知らせを聞いたついでに、無断で牛の背中に便乗した鼠が、労せずトップでゴールインしたので、十二支の最初の位置を確保することになりました。
鼠が、仲が良くない猫には知らせないように牛に頼んだため、猫はお釈迦様の臨終の場に駆けつけることが出来ませんでした。
ですから、お馴染みの動物であるにも拘らず、「涅槃図」には猫の姿がないものが多いようです。
「十二支」の選抜からも外され、「涅槃図」のモデルにも採用されない、そんな不愉快な状況をもたらした鼠を、猫は許すことができません。
恨みを晴らすべく、それ以来、猫は、ずっと鼠を追いかけ回すことになりました。
もう一つの説では、猫は、遅れてきたので「顔を洗って出直してこい。」と言われて、今でもしょっちゅう前足で顔を洗っています。
又、犬と猿が仲が悪いので、間に鳥が入ってニ匹の仲をトリ持ったそうです。
猫と同じく、「十二支」の選抜から外された蛙(かえる)が、逆ギレして「カエル!」と怒って帰ってしまったという話もあるようですが、ほんまかいな?
十二支については、日本だけでなく、朝鮮半島、東南アジアなどの漢字文化圏に加えて、モンゴル、ロシア、インド、アラビアなどでも見られるようですし、動物にも多少のバリエーションがあり、例えば、チベットやタイ、ベトナムなどの十二支には、兎に代わって猫が選抜されているようです。
ところで、「十二支」というのは方位を表すことにも使われています。
陰陽五行説から派生した「風水(ふうすい)」でも、鬼門(きもん)とされる北東は丑寅(艮)(うしとら)の方角とされ、その反対の裏鬼門(うらきもん)は南西で、未申(坤)(ひつじさる)の方角ということになっています。
桃は中国原産で、病魔や災厄を払う力があると信じられていたそうで、やはり、昔話の鬼退治の主人公の名前は、桃ちゃん(桃太郎)でなくてはならなかったようです。
桃ちゃんの住む村は、鬼ヶ島を丑寅(艮)の方角(鬼門)とすると、未申(坤)の方角(裏鬼門)にありました。
桃ちゃんが、時計回りに丑寅(艮)の方角にある鬼ヶ島を目指すと、順番に、猿(申)、雉(酉)、犬(戌)に出会ったので、当時人気の黍(きび)で作った団子を与えて、彼らを買収して家来としました。
その後、彼等と共に、丑寅(艮)の方角の鬼ヶ島に住む「牛のような角」を持って、「虎皮の褌(ふんどし)」を穿(は)いた鬼を退治したとか、なんとか。
桃ちゃんのために、仲の悪い猿と犬の二匹の部下を“トリ”もってくれたのは中間管理職の雉であったのはいうまでもありません。
古来、日本では鳥といえば雉を指すということらしいですが、雉は日本の国鳥にもなっています。
あまり真に受けないで下さい。