「高尾山の釈迦仏伝四相図と十二支の話」の稿で取り上げた「仏伝図」に続いて、今回は、初期仏教のもう一つの名残ともいうべき「ストゥーパ(仏舎利塔)」のお話です。
実は、高尾山の有喜苑にあるストゥーパには、1931年に当時のタイ国王、故プラチャーティポク国王(ラーマ七世)から、日タイ友好のために「ボーイスカウト日本連盟」に贈られた“考古学的な裏付けがある“「本物の仏舎利」がお祀りされています。
このストゥーパは、タイ式のストゥーパをモデルに1956年に建造されました。
高さ18メートルの鉄筋コンクリート造りです。
高尾山のストゥーパでは、毎年4月の第一日曜日に、ボーイスカウト日本連盟等の主催により、「高尾山仏舎利法要花まつり」の儀式が営まれており、タイ国王からの仏舎利奉戴(ほうたい)何十周年というような節目の年には、在日タイ王国大使館から参事官クラスの代表者のご臨席も仰いでいるようです。
ストゥーパは、元々、煉瓦と石で出来た半球体の建造物で、お釈迦様の遺骨をお祀りするためのもとして、その起源は、紀元前3〜4世紀のインドに遡ります。
古代インドでは、炎暑などを避けるために、貴人が、従者などに命じて頭上に傘蓋(さんがい)(日傘の大きいもの)をかざさせて歩いたことから、傘蓋は尊貴のシンボルとされ、お釈迦様のご供養のためにも、半球体のストゥーパの頭頂部には幾重にも傘蓋が付けられています。
ストゥーパは、中国や朝鮮半島を経由して、日本にも伝わっていますが、各国の事情によってストゥーパの建築資材や建築様式は様々です。
ストゥーパというのは、実は、三重塔(さんじゅうのとう)や五重塔(ごじゅうのとう)など、日本の木造建築の仏舎利塔の先駆をなすものなのです。
日本の仏舎利塔の屋根から天に向かって突き出た金属製の部分を相輪(そうりん)と呼びますが、これは、古代インドのストゥーパの頭頂部にある傘蓋が発展したものだそうです。
三重塔や五重塔のデザイン自体も傘蓋が発展したもののようですが、特に、五重塔という場合には、五重というところにも深い意味があるようです。
即ち、五重塔は、『仏教において、「宇宙にあるすべてのものの構成要素」とされる「五大(panca-maha-bhuta:パンチャ・マハー・ブータ)」、即ち、「地(ち)(prthivi:プリティヴィー)(Earth)」、「水(すい)(apah:アプ)(Water)」、「火(か)(agnih:アグニ)(Fire)」、「風(ふう)(vayuh:ヴァーユ)(Air)」、「空(くう)(akasah:アーカーシャ)(Space)」を表している』とされています。
仏教上は、人間もこの5つの要素によって「生かされている」と説明されています。
私は、アメリカの作家「ダン・ブラウン(Dan Brown)」のファンで、彼の作品はよく読んでいるのですが、その中に、トム・ハンクス(Tom Hanks)の主演で映画化もされた「天使と悪魔」という邦題の小説があります。
ローマ・カトリック教会とイルミナティ(Illuminati)という秘密結社との関係を題材にしたこの小説の中で、『この世界の「物質」は、「空気(Air)」、「火(Fire)」、「水(Water)、「土(Earth)」という「四大元素(しだいげんそ)」から作られている』という、ギリシャ文明以来のヨーロッパにおける哲学思想を軸にして物語が 展開して行きます。
「なんだ、五大とよく似ているじゃないか!」と思ったのですが、どこが違うのかと考えると、この「四大元素」というのは、実質的には、五大から、「空(Space)」だけが欠落したもののようにも見えます。
「高尾山の釈迦仏伝四相図と十二支の話」の稿で言及した中国古代の哲学思想である陰陽五行説では、「木・火・土・金・水という五つの元素が万物を構成している」という考えをとるようなので、火・土・水の三つまでは三者共通です。
最初に、ゼロ(0)を定義したのはブラーマグプタ(Brahmagupta)という7世紀のインドの数学者とされているようですが、ヨーロッパや中国が、数学のゼロ(0)について、インドに遅れをとってしまったのは、哲学思想の部分で、「空(Space)」というコンセプトが欠けていたからかも知れませんね。
「だから、何なんだ?」と突っ込まれると、子供の頃からずっと、数学とは、本来「数が苦」と書き表すのが正しいのではないかと信じていた私としては、返答に窮してしまいます。
そもそも、与太話なので、あまり深く追求することはご容赦頂いて、本題に戻らせて下さい。
真言宗のような密教では、「五大」を「五輪(ごりん)」と呼び、平安時代以降、この思想に基づく石製の五輪塔(ごりんとう)が多く作られています。
五輪塔は、今でも、供養塔や墓標として用いられていますので、ご覧になったことがある方も多いでしょう。
「五輪」の「輪」というのは、『高尾山は「煩悩まみれの凡人」が目指すべき理想の霊山?』の稿でご紹介した「三輪身(さんりんしん)」と同じ用法のようで、全体を形成するための要素という意味で使われていると思われますが、下から順に、地は「方形」、水は「円形」、火は「三角」、風は「半月」、空は「宝珠」の形で表されています。
墓石の裏側に置かれる、個人の戒名(かいみょう)や没年(ぼつねん)を記してある卒塔婆(そとうば)の形状も、五輪塔と同じように、五重塔を簡略化したものと言われています。
ご想像の通り、卒塔婆は、サンスクリット語の「Stupa(ストゥーパ)」の音写語とされています。
余談ですが、西洋では、剣豪・宮本武蔵の『五輪書(ごりんのしょ)(地の巻・水の巻・火の巻・風の巻・空の巻の5巻から構成されています)』によって「五大」が知られたことから、「五大」というコンセプトは日本で生まれたものと誤解されているようです。
ところで、五重塔については、明治以前に建てられて現存するものが22あり、その後も続々と建てられて、現時点では、80以上あるといわれています。
前述の通り、これらは、本来、仏舎利と呼ばれるお釈迦様の遺骨お祀りする目的で建造されるものですが、一方で、本物の仏舎利を手に入れることは、事実上、ほぼ不可能と思われます。
そこで、日本で仏舎利塔や舎利殿(しゃりでん)などと呼ばれる建造物については、殆どの場合、翡翠(ひすい)や石英(せきえい)を粒状に加工したものを仏舎利の代用品としてお祀りしたり、代替品として、経典を納める場合もあるようです。
但し、冒頭でも申し上げましたが、有喜苑のストゥーパに祀られているものは、“考古学的な裏付けのある“「本物の仏舎利」であるとされています。
恐らく、日本の数ある仏舎利塔の中で、「本物の仏舎利」が祀られているのは、高尾山のストゥーパ以外には、名古屋の覚王山日泰寺(かくおうざんにったいじ)の仏舎利塔だけと言っても良いのかも知れません。
即ち、1898年に、イギリス統治下のインド北部、ネパールとの国境付近にあるピプラーワー(Piprahwa)のストゥーパからイギリス人行政官ウィリアム・ペッペ(William Peppe)により発見された人骨の入った壺に書かれていた古代文字を解読したところ、その人骨は釈迦の遺骨であることが判明しました。
出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/69/Stupas-Original-00021.jpg
その時点で、インドは、既にヒンズー教徒やイスラム教徒が多い、非仏教国と化していたこともあり、舎利容器のみがコルカタ(Kolkata)(旧称:カルカッタ)のインド博物館の所蔵品とされる一方で、舎利容器の中身(仏舎利)については、1899年に熱心な仏教国であるシャム王国(現在のタイ王国)の王室に寄贈されました。
もちろん、その他の埋葬品の一部は、ちゃっかりと(世界最大の泥棒コレクションとも揶揄(やゆ)される)大英博物館の所蔵品になっているそうですが・・・
タイに渡った仏舎利は、タイ、ナコーンパトム(Nakhon Pathom)にある世界一の高さを誇る仏舎利塔、プラ・パトム・チェディ(Phra Pathom Chedi)、バンコクのワット・サケット(Wat Saket)の仏舎利塔などに安置されたようです。
プラ・パトム・チェディの高さは、120メートル以上と東寺の五重塔の倍以上あるようですが、台座の直径も200メートル以上と巨大なもので、金色のタイルに覆われています。
タイは、現在でも敬虔な仏教徒の国というイメージが強いですが、仏舎利塔についても、日本最古といわれる法隆寺の五重塔より、その起源はよほど古いようであり、歴史的に見ても、仏教国として日本の大先輩のようですね。
一方で、法隆寺の五重塔に遡る日本の耐震建築技術は、高層ビルや東京スカイツリーの建設にも応用されており、仏教が形骸化してしまった現在の日本では、仏教文化は、より世俗的な方面で活用されているようにも思われます。
因みに、日本の五重塔については、落雷などによる火災で焼け落ちたものはあっても、地震で倒壊したものはないそうです。
タイ王室に寄贈された仏舎利の一部は、1900年に当時のチュラーロンコーン国王(ラーマ五世)から、仏教国であるビルマ(現ミャンマー)、セイロン(現スリランカ)、そして、その当時のタイ駐在稲垣公使を通じて「私達にも頂戴」とせがんだ日本へも分骨されました。
因みに、このラーマ五世のお父様(ラーマ四世)が、ユル・ブリンナーや渡辺謙が演じたことでも知られるミュージカル「王様と私」に登場するタイ国王のモデルとなっている方のようです。
覚王山日泰寺は、その時の仏舎利をお祀りするために、1904年に創建されたもので、現在19宗派の管長が輪番制により3年交代で住職をつとめ、日本でも唯一の宗派を超えた全仏教寺院となっています。
「覚王」とは、「目覚めた人」であるお釈迦様を敬う意味が込められたお釈迦様の別称であり、日泰寺は、ご想像通り「日本とタイの寺院」という意味で名付けられたものです。
高尾山の有喜苑にあるストゥーパに祀られている仏舎利も、覚王山日泰寺にお祀りされているものと、出所は同じとされています。
ひょっとしたら、故プラチャーティポク国王(ラーマ七世)は、お父様(故チュラーロンコーン国王(ラーマ五世))が、既に日本に仏舎利を分けていたことをご存知なかったのかも知れませんね。
寿司屋のスラングでトッピングのことをネタと言い、一口大の寿司飯の部分をシャリと言いますが、一説によれば、シャリは、お釈迦様の遺骨、或いはその代替物である翡翠や石英の粒?が米粒に似ているからだということです。
米を意味するサンスクリット語のsari(シャリ)が語源だという説もあります。
因みに、仏舎利の舎利はサンスクリット語で遺骨を意味するsarira(シャリーラ)の音写だそうです。
高尾山の白亜のストゥーパは、特に、紅葉の時期には周囲の自然に溶け込んで、被写体としても魅力のあるものですが、更に、お祀りされている仏舎利が本物だという認識があれば、高尾登山の折には決して見逃すことが出来ないパワースポットだとも言えるでしょう。
そうとも知らず、有喜苑をスキップしてしまう登山客は結構多いような気がします。
なんと、勿体無いことでしょう!
高尾山の仏舎利塔には本当に仏陀の舎利が納められているとは驚きであり貴重なものなのですね。ゼロのがインド人によって「発見」されたという事はインド人には「空」の概念があったからという指摘は鋭い。岩波新書の零の発見にも書いてなかったと思う。