八大龍王は親子で薬王院に貢献?

高尾山の薬王院では、山門(寺院の正門)である四天王門から境内に入って大天狗、小天狗のブロンズ像を右手に見ながら進むと八大龍王堂(はちだいりゅうおうどう)が目に入ってきます。

これは、1993年に設けられた比較的新しい施設です。

名前の通り、仏教の守護神であり、水神として崇拝されている「八大龍王」をお祀りしています。

御祭神の数が多いので、ここでは、最もイケメンとされる「裟伽羅龍王(しゃからりゅうおう)(Sagara Naga Raja:サーガラ・ナーガ・ラージャ)」の像が、八大龍王を代表しています。

八大龍王堂(薬王院 境内)

浅草の浅草寺の手水舎(ちょうずや)にも、高村光雲(たかむらこううん)作といわれる娑伽羅龍王の像が祀られていますので、浅草寺にお参りしたことのある方にはお馴染みのお姿かも知れません。

新しい施設にも拘らず、銭洗いという風変わりなコンセプトにより外国人観光客の間でも人気スポットとなっています。

この手水舎のような場所でお金を洗うとそれが何倍にもなるというわけです。

八大龍王と同一視されることもある「弁財天(べんざいてん)(Sarasvati:サラッスワティー)」についても、似たような場所が、日本各地に見られます。

鎌倉の銭洗弁天宇賀福神社(ぜにあらいべんてんうがふくじんじゃ)(通称:銭洗弁天)が一番有名かも知れませんね。

弁財天は、水、音楽、芸術、女性美、及び幸運の女神ですが、水辺に祀られることが定番のようです。

昔、三鷹に住んでいた頃、よく井の頭公園に遊びに行きましたが、井の頭池の畔(ほとり)に弁財天(井の頭弁財天)がお祀りされていました。

高尾山にも 弁財天を祀った福徳弁財天(穴弁天)という弁天窟が薬王院の大僧坊(だいそうぼう)奥に有り、八大龍王堂と同じような銭洗いのご利益が受けられます。

こういった場所では、外国人観光客には、「プラスチック・マネー(クレジット・カード)は洗わない方が良い、悪くするとカードの請求額が何倍にもなるリスクがあるから」とアドバイスしていますが、最近は、スマホでキャッシュレスなんて時代に突入してきていますので、ガイドもやりにくくなっています。

平安時代初期、第50代「桓武天皇」により、大内裏(だいだいり)(平安京の宮城)の南東隣に宮中庭園として設けられた神泉苑(しんせんえん)には、龍神(龍王)(Naga Raja:ナーガ・ラージャ)が住んでいるといわれていたそうですが、そこを舞台にした、弘法大師空海にまつわる伝説が残されています。

即ち、第52代「嵯峨天皇(さがてんのう)」の時代、824年の干ばつにおいて東寺(教王護国寺)の長者(座主(ざす))の弘法大師と西寺の長者の守敏(しゅびん)との間で、雨乞いの法力争いが行われ、弘法大師は、娑伽羅龍王の三女である善女龍王(ぜんにょりゅうおう)の協力により、守敏に勝利することができたというものです。

善女龍王図(長谷川等伯作)

薬王院としては、弘法大師所縁の真言宗智山派の関東山大本山の一つという立場も踏まえて、併せて、集客力の一層の向上というビジネス目的からも、八大龍王堂の新設という追加の設備投資に踏み切ったのではないかと思われます。

神泉苑の一部は、現在、二条城の南側に残っています。

神泉苑(京都府京都市中京区)

ご存知の通り、平安京と呼ばれた京都は、中国の唐の時代の「長安(ちょうあん)」と「洛陽(らくよう)」をモデルに都市計画が立てられたといわれています。

当時の平安京は、現在の京都より西に広がっていたようです。

東寺は東の左京側にあり、一方、西寺は縮小して無くなってしまった右京側にあったのです。

尚、左京、右京というのは、大内裏から南に向かって左側を左京、右側を右京と呼んだものです。

平安京図

京都の北側を洛北(らくほく)と呼び、南側を洛南(らくなん)と呼ぶことをご存知の方も多いでしょう。

これは、平安時代には、右京側を長安、左京側を洛陽に例えたということからきているようです。

現在の京都から見ると、洛陽(左京)部分しか残っていないということなのでしょう。

ですから、東寺という名前にも拘らず、東寺の所在地は、現在の京都の中心より西側にあると感じる方も多いのではないでしょうか?

弘法大師を助けたと言われる善女龍王は、高尾山の北麓にある蛇滝青龍堂(じゃたきせいりゅうどう)に青龍大権現(せいりゅうだいごんげん)として祀られています。

蛇滝青龍堂(高尾山)

青龍大権現は、薬王院とも所縁のある真言宗系当山派の大本山であった京都醍醐寺の守護女神でもあります。

「時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」というのは、小倉百人一首の選者でもある藤原定家(ふじわらのていか)に師事し、歌人としても有名だった鎌倉右大臣(かまくらのうだいじん)、鎌倉幕府三代将軍「源実朝(みなもとのさねとも)」作による和歌です。

小倉百人一首 第九十三番歌

なにやら、地球温暖化がもたらす異常気象で、集中豪雨被害が頻発する現在の日本の状況に重なる情景が歌い込まれているようです。

この歌の内容から、鎌倉時代に入っても、依然として八大龍王が雨をコントロールしているということが「常識」だったことがわかります。

その当時は、歌を読むことも政治だったんですね。

今年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」でも描かれている坂東武者達には、そういう朝廷や公家のような政治スタイルは受け入れ難いものだったかも知れませんが・・・

高尾山には、薬王院の中興の祖と言われる京都醍醐寺出身の僧、俊源大徳(しゅんげんだいとく)と青龍大権現にまつわる伝説も伝えられています。

ある時、俊源大徳が、高尾山北麓の蛇滝青龍堂での17日(青龍大権現の縁日)の水行を終わった後、高尾山に登る道に大きな杉が根を張って通行の邪魔であったのを見て、般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えると、この杉は、たちまちくるくると根を巻いて道は開かれたといわれています。

ご想像の通り、この伝説に登場する大きな杉とは、薬王院の表参道である1号路脇の「猿園」のそばにある「蛸杉」のことです。

蛸杉(高尾山 1号路)

「蛸杉」は、道を開いたところから「開運杉」とも呼ばれています。

現在の「蛸杉」の樹齢は約500年といわれていますし、俊源大徳は、室町幕府三代将軍足利義満の頃の人物といわれていますので、どう考えても計算が合いません。

商売上手の薬王院が考えた客寄せのための「与太話」と考えてよいのではないかと思われます。

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(1)件のコメント

  1. 胡蝶 忍

    継続こそ力なり!
    毎週更新されるのを楽しみにしております。

    私が訪れたことのあるインドやミャンマーなどにはナーガ寺院やナーガヒルズ、ナーガ人などナーガの付く名がありましたが、ナーガは蛇(蛇神)のことだと聞きました。サンスクリット語の「ナーガ」は漢訳仏典では「龍」と訳しているそうですが、実際に描かれているのは(日本でいう)龍というよりキングコブラの形をした蛇ですね。

    サラスバーティは学問と技芸の女神でヴィーナという楽器を持ち、ヴァーハナは孔雀で背後には川が描かれるように、元来は河川の女神であるそうです。日本では弁財天として知られ、楽器を琵琶に置き変えただけで水と縁が深い性格は変わらないのですが、弁才天に弁財天の字が当てれたので利殖と蓄財の女神に変わったとのことです。

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