誰がために薬王院の鐘は鳴る

高尾山では、薬王院の大本堂の近くに、鐘楼(しょうろう)(鐘撞堂(かねつきどう))があります。

銅葺(どうぶ)き入母屋(いりもや)造りの建物は、比較的新しく(1974年)造られたものですが、鐘楼のそばに置いてある今は使われていない方の梵鐘(ぼんしょう)は、江戸時代の初め、17世紀前半の寛永(かんえい)年間(1631年)に鋳造されたものだそうです。

寛永年間に鋳造された梵鐘(高尾山 薬王院)

もっとも、日本最古の梵鐘としては、飛鳥時代後期に作られたといわれるものが三つあり、「観世音寺(かんぜおんじ)」(福岡県太宰府市)、「妙心寺(みょうしんじ)」(京都府京都市右京区)及び、「當麻寺(たいまでら)」(奈良県葛城市)で、それぞれ見学することができます。

「妙心寺」は、室町時代に創建された禅寺で、共に飛鳥時代に創建された「観世音寺」や「當麻寺」などよりよほど新しいのですが、そこにある梵鐘については、「観世音寺」の梵鐘と同じ鋳型から作られた兄弟鐘とされているようです。

いずれも国宝となっていますので、薬王院の梵鐘もこれらと比較されてしまうと、歴史的な価値という点でも、「月とスッポン」、「提灯(ちょうちん)に釣鐘」のような大きな違いがあります。

ところで、仏教はインド起源のものですが、梵鐘の「梵」は梵語(サンスクリット語)のBrahma(神聖・清浄)の音写語(おんしゃご)とされるある一方で、日本に伝えられた寺院の梵鐘については、中国古代の青銅器を起源とするというのが正しい認識のようです。

2004年の夏、HISの格安ツアーで、北京、西安、上海を巡る家族旅行をした折、「上海博物館」で見事な青銅器のコレクションを見学する機会があったのですが、そこでは、「高尾山の釈迦仏伝四相図と十二支の話」の稿で言及した「釈迦生誕」の「シローさん(463)」(紀元前463年)より、1000年以上も古い青銅器も展示されていました。

つまり、『祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常(しょぎょうむじょう)の響きあり。』で始まる、有名な平家物語の冒頭の一節については、『お釈迦様が説法を行ったというインドの祇園精舎には、中国や日本で見られるような梵鐘はなかった』という点で、その内容の一部に事実誤認があるということになります。

無粋(ぶすい)なことを申し上げましたが、それでも、この平家物語の冒頭の一節が、不朽(ふきゅう)の名文であることに変わりはなく、事実誤認ゆえに、その文学的価値が損なわれるものではないと信じます。

お寺の鐘について、外国人観光客へは、『昔は、お寺の鐘は時を告げる役割を持っていましたが、現在においては、多くの場合、大晦日に108回鳴らされるということだけになってしまいました。鐘の音は、行く年を見送り、新たな年を迎え入れるだけではなく、我々を108の煩悩から解放してくれると信じられています。』なんて具合に適当に説明しています。

「除夜の鐘」の起源については、中国の仏教寺院で、毎月月末の夜に108回鐘を撞いていたのが、宋王朝の時代になって大晦日だけになり、鎌倉時代に来日した禅僧が、この風習を日本の禅宗の寺院に伝えたというのが通説のようです。

そういう意味では、日本最初の「除夜の鐘」の栄誉は、日本最初の禅寺といわれ、鎌倉五山の筆頭である「建長寺(けんちょうじ)」(神奈川県鎌倉市)の梵鐘(1255年に鋳造)あたりに与えられるべきものなのかも知れません。

「高尾駒木野庭園を歩いてみよう!」の稿で言及した通り、「建長寺」は、モンゴルの侵略にさらされていた宋王朝時代の中国から日本へと逃れてきた、高名な禅師、「蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)」が開山(かいさん)となって、創建されました。

そのスポンサーは、今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、小栗旬(おぐりしゅん)さんが演じている「北条義時(ほうじょうよしとき)」の曾孫(そうそん)に当たる、鎌倉幕府第五代執権、「北条時頼(ほうじょうときより)」とされています。

建長寺の梵鐘(国宝)

平家物語が成立したのは13世紀前半といわれており、建長寺の創建より少し前のようですから、「平家物語」の冒頭の一節は、必ずしも「除夜の鐘」との関連性はないのかも知れません。

しかし、人生も半ばを過ぎて、テレビ中継などで大晦日の「除夜の鐘」を聴きながら、「諸行無常の響きあり・・・」と、感傷的になる中高年の方もいらっしゃるのではないでしょうか?

他人事(ひとごと)ではありません。

「除夜の鐘」の風習は、室町時代に徐々に全国に広まり、江戸時代には、大晦日だけでなく、毎日の時を告げる役割を果たすようになったということのようです。

因みに、6月10日は、「時の記念日」とされていますが、これは、『「日本書紀」にある、天智天皇10年(671年)6月10日(太陽暦換算)に、日本で初めて、中国から伝えられた「漏刻(ろうこく)」と呼ばれる水時計による時の知らせが行われた』とされる故事に由来するようで、日本における時計の歴史は意外と長いことがわかります。

近江神宮 漏刻の記念碑(滋賀県大津市)

撮影者:663highland

出典:https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9b/Omi-jingu18n4440.jpg

ところで、「明治維新」による所謂(いわゆる)「文明開花」以前には、江戸時代を通じての鎖国の影響もあり、欧米で用いていた「定時法(日常生活の時刻を計る時に、昼夜を問わず1日を等しく分割した時間単位を用いる方法)」ではなく、「夜明けと日暮れを境に昼と夜に分け、それぞれ6 等分する」という「不定時法」に基づく、「和時計」が使用されていました。

この「和時計」というのは、江戸時代に、西洋式の機械時計に、日本の「不定時法」に合わせる機能を追加したもので、西洋式の機械時計が日本にもたらされたのは、大航海時代(日本では戦国時代)に、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルにより、周防国(すおうのくに)(現在の山口県)の大名「大内義隆(おおうちよしたか)」に贈られたというのが、最初だとされています。

江戸時代には、お寺の鐘も「和時計」を基準に鳴らされており、その「和時計」は、将軍家、大名、大商人などの限られた人だけが持つ高価なものだったようです。

ですから、先進諸外国の人々から見ると、明治時代以前の日本人は時間にルーズだと思われていたに違いありません。

今日では、電車やバスもほとんど遅れることなく、ほぼ定時にやってきて、「日本は時間に厳しい国」だという評判を獲得するようになりましたが、それまでには、多少年月を要したということになるようです。

外国人観光客から、日本の鉄道の定時運行についてお褒めの言葉を頂戴する時がありますが、『サラリーマンの終業時間については、「日本は時間に厳しい国」ではない』という「トホホな状況」についても、自分の経験も踏まえてご説明しています。

既に、時を知らせるという機能については、お役御免となったお寺の鐘ですが、薬王院では、参拝者の煩悩が多過ぎるせいか、彼等のためにも、毎日、朝晩の他、お昼にもこの鐘が鳴らされることになっているようです。

漠然と、「明け六つ」、「暮れ六つ」という言葉が頭に浮かんで、朝6時と夕方6時に、各6回鐘を撞いていると聞いても、それほど違和感はありませんでしたが、あるとき、高尾登山の途中、薬王院で、昼時に鐘を撞いているのに気がついて、耳を澄ませて聞いていたら、9回鳴らされていました。

現代人としては、「お昼に何で9回なのかな?」と疑問に思いますよね。

実は、昔(江戸時代)の時間の数え方は、『真夜中の九つから始まって、二時間ごとに、八つ、七つ、六つ、五つ、四つ、そして正午で九つに戻り、それからまた、二時間ごとに、八つ、七つ、六つ、五つ、四つ、そしてまた真夜中には、九つに戻る』というものだったんです。

江戸の刻

ですから、薬王院の鐘撞きの回数は、「江戸の刻(とき)」のシステムに従ったものなんですね。

『江戸時代には、真夜中の午前0時が九つで、その直前の午後10時が四つだった』ということが良く分る話が、古典落語の「時そば」の中に出てきます。

ご存知の方も多いと思いますが、「時そば」のストーリーは、ある男が、二八蕎麦(にはちそば)の代金、16文をうまく誤魔化したのを、そばで見ていた別の男が、真似しようとして失敗するお話です。

因みに、二八蕎麦というのは、そば粉:8割、うどん粉:2割で作った安物の蕎麦のこと、或いは、江戸末期、値段が一杯16文であったことから、2×8=16で、1杯16文の蕎麦のことともされています。

先ず、最初に登場する男は、真夜中の九つ(午前0時からの約2時間)、江戸の街を流している屋台の二八蕎麦で、かけ蕎麦を注文し、食べ終わったら、蕎麦屋の主人に掌(てのひら)を出させ、威勢(いせい)よく、一文銭を一枚一枚数えながら載せて行きます。

「それ、ひい(一)、ふう(二)、みい(三)、よう(四)、いつ(五)、むう(六)、なな(七)、やあ(八)」と数えたところで、「いまなんどきだい?」と、蕎麦屋の主人に時刻を尋ねます。すると、蕎麦屋の主人が「へい、九つ(午前0時からの約2時間)で」と応じ、男は、間髪(かんぱつ)入れずに「とう(十)、十一、十二、十三、十四、十五、十六、あばよ」と続けて16文を数え上げ、すぐさま店を去ります。つまり、代金の一文をごまかしたわけです。

この一部始終をそばで見ていて、この「ちょいワル」男の手際(てぎわ)にすっかり感心してしまった別の男が、当日は持ち合わせがなかったので、翌日、それを真似してやろうじゃないかと思い立ちました。

ところが、少しでも早く、あの素晴らしい詐欺の手法を実践してみたいと気が急いて、宵の口から出かけてしまったのが運の尽き、なんとか、屋台の蕎麦屋をつかまえて二八蕎麦を注文し、そそくさと、うまくもない蕎麦を食べ終わると、早速、昨夜の「ちょいワル」男の真似を始めます。

「それ、ひい(一)、ふう(二)、みい(三)、よう(四)・・・」と、一文銭を蕎麦屋の主人の掌に一文銭を8個のせた時点で、「いまなんどきだい?」と時刻を尋ねます。すると蕎麦屋の主人が「へい、四つ(午後10時からの約2時間)で」と応え、間髪入れずに「いつ(五)、むう(六)、なな(七)、やあ(八)・・・」とやってしまうというのがこの落語のオチです。

今では、軽食の意味で使われる「おやつ」も、一日二食が普通だった江戸時代の中期まで、体力を持続させるために「八つ(午後2時からの約2時間)」頃にとっていた間食が語源となっているようです。

考えてみると「3時のおやつ」というのは、「馬から落馬する」みたいな表現になってしまいますね。

この「江戸の刻」のシステムは、元来、『数字の「九(jiu)」は、その発音が「久(永久)(jiu)」に通じることから縁起が良いとする中国の陰陽道(おんみょうどう)の考えに基づくもの』で、恐らくは、上述の「天智天皇」の「漏刻」の頃には、その考え方も日本にもたらされていて、江戸時代より以前から定着していたと思われます。

縁起の良い数字とされる9が「一単位」で、続いて18(9×2)、27(9×3)、36(9×4)、45(9×5)、54(9×6)と、これで半日分となりますが、十の位は無視します。

結果として、順番に9、8、7、6、5、4となるわけです。

日本では、「九」は「苦」に通じるということで縁起が悪いと考えられがちですが、なるほど、これもまた中国からの「輸入品」だからなんですね。

この話を外国人観光客に説明して理解してもらう自信はありませんので、いつも「除夜の鐘」と、「108の煩悩」止まりになってしまいます。

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