高尾山の薬王院の境内に入る前に、山門である四天王門でインド出身の四人の神様のセキュリティ・チェックを受けなければなりません。
四天王というと、6世紀後半、仏教の布教をめぐる蘇我馬子(そがのうまこ)をリーダーとする崇仏派(すうぶつは)と、物部守屋(もののべのもりや)をリーダーとする排仏派(はいぶつは)の争いで、物部守屋追討軍に従軍していた「聖徳太子」が、崇仏派の戦勝を四天王に祈願したというエピソードでも知られています。
大阪の四天王寺も、聖徳太子が、四天王に祈願して崇仏派が勝利を得たことに感謝して建立したものといわれています。
「蛸杉も横綱も御神体?」の稿で、相撲の土俵上の東西南北に吊り下げられている四色の房は、道教の神々である四方を守護する聖獣(玄武(げんぶ)(北)、朱雀(すざく)(南)、青龍(せいりゅう)(東)、白虎(びゃっこ)(西))を表していることに言及しましたが、四天王は、その仏教版といえるかも知れません。
薬王院の四天王門は、江戸時代に建造されたものをモデルにして、1984年に再建されました。
銅葺入母屋屋根(どうぶきいりもややね)の楼門(ろうもん)(二階建ての門で下層に屋根のないもの)ですが、総工費5億円といわれる総檜(そうひのき)造りで、ブロンズ製の四天王の像には、それぞれ金箔が施されています。
私は、実際に見たことはありませんが、二階部分には、弘法大師像が安置されているそうです。
薬王院の四天王門には、四天王や弘法大師の他にも、門の内部に大天狗の巨大なお面が安置されており、不審な訪問者がいないかどうかを見張っているという特徴があります。
今度、高尾山で四天王門をくぐる時には、スマホのLEDライトを使って、境内に向かって左側の壁の金網の向こうの暗闇に潜んでいる大天狗のお顔を探してみて下さい。
香港在住の中国人の知人を鎌倉に案内した時、彼は、鎌倉大仏で有名な高徳院の仁王門を見て、中国では四天王門の方が一般的だと言っていましたが、日本では、逆に、山門に四天王を配置している例は限られているといわれています。
川崎大師の大山門(だいさんもん)や、高野山の中門(ちゅうもん)などは、戦後に再建された新しいものですが、四天王門となっています。
以前、「役行者のお使いの鬼のカップルは「かかあ天下」?」の稿で、「左上右下の原則」や「阿吽形配置の原則」に基づいて、二人組(ペア)の像に関する色々な考察を試みましたが、四人組(カルテット)である四天王の配置については、これらの原則とは別の基準があるようです。
インド出身のカルテットの神様は、日本最古といわれる法隆寺金堂、東大寺の戒壇堂(かいだんどう)、及び、東寺(教王護国寺)の講堂の四天王像の配置などに見られるように、向かって右側から、東方を守護する持国天(じこくてん)(Dhrtarastra:ドリタラーシュトラ)を皮切りに、時計回りに、南方を守護する増長天(ぞうちょうてん)(Virudhaka:ヴィルーダカ)、西方を守護する広目天(こうもくてん)(Virupaksa:ヴィルーパークシャ)、北方を守護する多聞天(たもんてん)(Vaisravana:ヴァイッシュラヴァナ)の順番で配置されるのが「業界標準」のようです。
「じ・ぞう・こう・た(地蔵買うた)」と関西弁で覚えるのが良いようです。
私は、これを「四天王像配置の原則」と勝手に呼んでいます。
高尾山の四天王門は、東向きに建てられていますが、門の外側から見て正面が持国天(向かって右)と増長天(向かって左)となっている点では、「四天王像配置の原則」に従っているようです。
川崎大師の四天王門(大山門)における四天王像の配置も高尾山のものと同様です。
一方で、高野山の中門における四天王の配置は、門の外側から見て正面が多聞天(向かって右)と持国天(向かって左)となっており、これは「四天王像配置の原則」には合致していません。
後程ご説明しますが、これにはちょっと事情があるようです。
古来、仏教寺院は、北極星を天帝として尊ぶ中国の道教の影響で、北極星を背負って南向きに建てられていたようですが、薬王院の四天王門を含めて山間部に建てられる寺院については、地形的な制約等から、必要に応じてそういう拘りは捨てざるを得ない場合もあるようです。
時代が下って、平安時代以降に、阿弥陀如来を信仰する浄土系の仏教が盛んになると、西方極楽浄土(さいほうごくらくじょうど)を背負って東向きに建てられる寺院も多くなりました。
余談ですが、同じく、道教の影響で、中国の皇帝(天子)の宮殿も正門も南向きに建てられ、日本の平城京や平安京等もそれに倣っていますが、現在の皇居は、元々徳川家の居城として建てられたものですから、江戸城として作られた時点では、恐れ多くて南向きに建てるわけにはいかなかったようです。
「四天王像配置の原則」に加えて、四天王像の阿吽形についても「何か法則性のようなものがないか」探してみました。
すると、高野山、高尾山、東寺、川崎大師、東大寺大仏殿とも、阿形は、持国天と増長天、吽形は、広目天と多聞天という組み合わせで共通していることがわかりました。
もっとも、迫力満点の東大寺大仏殿の巨大な四天王像は、御本尊である毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(Vairocana:バイローチャナ)の後方に配置された広目天と多聞天のみが完成形で見ることができます。
一方で、持国天と増長天は未完成で、巨大な頭部のみが“口を開いたまま”大仏殿の北東の隅に残されています。
江戸時代に大仏殿が再建された時には、幕府からは十分な財政支援が得られず、そんな中途半端な状態が放置されてしまったのではないかと思われます。
それでも、室町時代の大地震(一説によれば津波)などで倒壊したともいわれる大仏殿の再建も行われていない「鎌倉大仏」よりはずっと恵まれた境遇といえるかもしれません。
鎌倉大仏については、江戸時代の台座の修復計画においても十分な浄財が集まらずに、当初は台座の装飾用にブロンズ製の32枚の蓮弁(れんべん)が鋳造される予定が、実際に完成したのは4枚のみで、台座の修復計画は頓挫、未だに、その4枚の蓮弁が“正体不明の物体”として鎌倉大仏の背後に中途半端に並べられています。
訪日外国人観光客からも「これはなんですか?」と聞かれることがあります。
話が脱線してしまいました。
四天王の阿吽形に話を戻しますと、日本最古といわれる法隆寺金堂の四天王像は、全ての像が吽形に見えますし、東大寺戒壇堂の四天王像、同三月堂(法華堂)と唐招提寺金堂の四天王像については、阿形のものは増長天のみで、残りは全て吽形のようです。
こうして見ると、時代が下って、阿形は、持国天と増長天、吽形は、広目天と多聞天という組み合わせが定着してきたようです。
薬王院の四天王も含めて、四天王像は、中国風の甲冑(かっちゅう)を身に付けたデザインとなっていますが、これは、中国経由で日本にやって来たからです。
元々インド出身のヒンズー教の神々なので、前述の通り、それぞれがサンスクリット語のお名前を持っています。
四天王像を造形する場合、彼等の持物(じもつ)については、必ずしも決まりはないようですが、四天王の持物には共通したものも多いようです。
よく足元を見ると醜い邪鬼(じゃき)を踏みつけていますが、これはデザインとしては定番のようです。
では、高尾山の四天王門のカルテットを個別に見て見ましょう。
四天王門の前面の二つの像は、向かって右が持国天で、右手に金剛杵(独鈷杵(どっこしょ))、左手に三叉戟(さんさげき)を持っています。
仏教の守護神として東方を守護し、道教の神々の中では「青龍」に相当します。
向かって左は、増長天で、右手に全ての願いを叶えるという如意宝珠(にょいほうじゅ)、左手に剣を持っています。
仏教の守護神として南方を守護し、道教の神々の中では「朱雀」に相当します。
門の内側の二つの像は、向かって右が広目天で、右手に筆、左手に(無知、邪悪、その他の全ての障害を克服する仏陀の教えの力の象徴である)経巻(けいかん)を持っています。
仏教の守護神として西方を守護し、道教の神々の中では「白虎」に相当します。
向かって左は、多聞天で、右手に三叉戟、左手に(神聖な宝物蔵を象徴する)宝塔を持っています。
仏教の守護神として北方を守護し、道教の神々の中では「玄武」に相当します。
多聞天は、四天王のリーダーと言われ、他の三者は多聞天の部将として仕えています。
多聞天が、単独で祀られるときは毘沙門天(びしゃもんてん)と呼ばれます。
因みに、四天王の上司にあたるのが、最強の武神である帝釈天(Indra:インドラ)であるとされています。
帝釈天といえば、渥美清が演じた「フーテンの寅さん」の故郷、葛飾柴又の「柴又帝釈天」(経栄山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)(日蓮宗))の御本尊としてお馴染みですよね。
柴又帝釈天では、当然、部下である四天王が御本尊の帝釈天の護衛をしていますが、護衛方法としては、四天王が二組に分かれていて、それぞれ役割分担があるようです。
即ち、仁王門ならぬ、「二天門(にてんもん)」と呼ばれる山門に、向かって右に増長天、向かって左に広目天が配され、山門から境内に入ると正面に見える帝釈堂内では、御本尊の帝釈天の両脇を多聞天と持国天が固めるという警備体制になっています。
浅草の浅草寺(せんそうじ)でも、宝蔵門(ほうぞうもん)と呼ばれる仁王門に加えて、柴又帝釈天のように二天門と呼ばれる東門(ひがしもん)があります。
浅草寺の東門は、元々は神道スタイルの随身門(ずいじんもん)であったようですが、神仏分離令の影響で、随身像の二体は浅草寺に隣接する浅草神社(あさくさじんじゃ)に移され、やはり、神仏分離令の影響で、仏像を持て余してしまったと思われる鶴岡八幡宮から広目天と持国天をお迎えしてお祀りすることにより二天門と改称することになったといわれています。
更に、これらの広目天と持国天が戦時中に修理先で焼失したため、戦後は、上野の寛永寺の持国天、増長天をお迎えしてお祀りすることになったようです。
二天門という呼称は、広義では仁王門も含めて使用されるようですが、広辞苑には、仁王の代わりに、四天王から起用されるのは多聞天と持国天という趣旨のことが書いてあり、上記のような実態とは違いますね。
前述の通り、高野山の中門における四天王の配置は、門の外側から見て正面が多聞天(向かって右)と持国天(向かって左)となって、「四天王像配置の原則」には合致していない旨ご説明しました。
実は、高野山の中門の四天王のうち、胸元にセミが止まったデザインがユニークな広目天と、同じく、胸元にトンボが止まった増長天は、高野山開創(かいそう)1200年記念事業として行われた中門の再建時に、新たに作られ、追加されたものです。
ですから、高野山の中門は、元々、多聞天と持国天がお守りする二天門だったと思われます。
恐らく、外観的な統一性が確保できるように、中門の正面には、先輩である多聞天と持国天を配し、裏側には、新参の増長天と広目天を配したのではないかと思われ、これにより四天王門における仏像配置としては変則的なものにならざるを得なかったようです。
高野山の開創時には、中門のあった場所には鳥居があったという話もあるようですし、その時々の諸事情で、万物流転(ばんぶつるてん)、諸行無常(しょぎょうむじょう)の世の中というわけですね。
次回は、薬王院の仁王門についてお話ししようと思います。