前回に続いて怨霊信仰の話です。
薬王院の開山とされる行基も貢献したことで知られる、聖武天皇による東大寺の大仏造営は、実は、無実の罪で死に追いやられた「長屋王(ながやおう)」の怨霊の鎮魂のために行われたという説があります。
壬申の乱で、天智天皇派と見なされて一時冷や飯を食わされていた藤原氏も、天武天皇の死後、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の次男である藤原不比等(ふじわらのふひと)の巻き返し策が功を奏し、彼と持統天皇との連携により、「持統天皇の男系子孫と藤原氏出身の女性が次代の天皇を産む」という“政治原則”が確立されようとしていました。
一方で、非藤原系で天武天皇の孫であり、有力な皇位継承の候補者であった長屋王は、「律令の規定により、皇后の資格は皇族出身者に限られる」として、藤原不比等の娘で、非皇族の光明子(こうみょうし)の立后(りっこう)(皇后の位につくこと)に強く反対していました。
その当時は、持統天皇のように、「父方に天皇の血を引く」皇后が“繋ぎ(つなぎ)”で、「天皇の地位」に就くこともありましたからね。
藤原不比等の死後、光明子の兄達である藤原四兄弟の陰謀により、長屋王は、無実であったにも拘らず、謀反の疑いで死に追いやられ、長屋王の死後、ようやく、光明子は皇后の座に就くことが出来ました。
非皇族出身の「光明皇后」の誕生です。
ところが、その後間も無くこれら藤原四兄弟の全員が天然痘で死亡するという“事件”がありました。
聖武天皇と光明皇后は、これを長屋王の怨霊の祟りに違いないと恐れて、「怨霊封じ込めのために、その当時の新たな“ハイテク技術”としての仏教を利用すべく大仏造営を行った」というわけです。
更には、東大寺の守護神として、皇室に所縁(ゆかり)の深い宇佐神宮(宇佐八幡宮)の八幡神を勧請し、手向山八幡宮に祀ったというのも、「怨霊の封じ込めに完璧を期した」ということのようです。
『役行者のお使いの鬼のカップルは「かかあ天下」?』の稿でもご説明しましたが、東大寺南大門や三月堂(法華堂)の仁王像の阿吽形の配置等が、“聖武天皇”の命令で?通常とは反対なのも、長屋王の怨霊の封じ込めのためだったりして?
天武天皇後の持統・藤原王朝にあっては、藤原氏の協力のもとに天智・藤原系の血脈を保とうと、これに対抗する長屋王を筆頭に、罪無くして殺された皇子達がありました。
「持統天皇の男系子孫と藤原氏出身の女性が次代の天皇を産む」という“政治原則”が確立される過程で、長屋王のように罪なくして犠牲になった人物として「柿本人麻呂(柿本人丸)(かきのもとのひとまろ・ひとまる)」を採り上げたのが、梅原猛氏の「水底の歌」です。
興味のある人は読んでみて下さい。
柿本人麻呂=猿丸大夫(さるまるだゆう)という説もあり、歌聖と称えられるのも鎮魂のため、柿本人麻呂も猿丸大夫両人とも百人一首にも選ばれているのは、ご先祖の悪行を詫びた藤原定家の思いがこもった鎮魂の歌集だからという説もあります。
長屋王の怨霊の祟りは、現在でも都市伝説として残っているようです。
即ち、奈良女子大出身の航空機リース業界の知人から聞いた話によれば、「長屋王邸宅跡では、数年前迄スーパーマーケットのイトーヨーカ堂が営業していたが不採算店舗として2017年に閉店・売却され、2018年になって新たなショッピングセンターとして生まれ変わっている。イトーヨーカ堂以前には、その建物にはデパートの奈良そごうが入居していたが、2000年にそごうは民事再生法の適用を申請し、奈良そごうは存続店となることができなかった。こうした不運な立地も長屋王の怨霊の祟り故ではないかとまことしやかに言われている。」とのことです。
実は、東日本大震災の約1週間前に、有給休暇を利用して、通訳ガイド業界団体主催の「通訳案内士の新人研修」というものに参加し、その際、奈良も訪れました。
研修の講師が、バスの車窓からイトーヨーカ堂の奈良店を指し示しながら、「皆さん、ご覧ください。奈良のイトーヨーカ堂は、建物が豪華だと思いませんか?実は、あの建物は以前はデパートのそごうが入っていたんですよ。」と説明してくれたのを覚えています。
その際、そこが「長屋王邸宅跡」だというような説明はありませんでしたが、「どうせこいつらに話しても、分からんだろう」と、それまでの研修の様子から、匙を投げられていたのかも知れません。
実は、デパートの閉店については、私の地元八王子も長屋王邸宅跡に決して引けを取ることはありません。
奈良そごうの話を聞いて、「なんだ、八王子そごうと一緒じゃないか?」と思ったくらいです。
地元資本のデパートのみならず、大丸、伊勢丹、西武、そごう、丸井等の全国区のデパートまで、八王子に出店したデパートは、ことごとく閉店の憂き目にあっています。
八王子にも「東大寺の大仏以上の何か?」が必要のようです。
平安時代中期(970年)に、学者の源為憲(ためのり)が貴族の教養としての必須の知識を暗唱しやすいように唄の形で編集した、『口遊(くちずさみ)』と呼ばれる貴族の子供用教科書があります。
その中の表現に、「雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)」という日本の大建造物に関わるものがあるそうです。
すなわち、「出雲太郎」、出雲大社がもっとも大きく、次いで「大和二郎」、東大寺の大仏殿、三番目が「京三郎」、京都御所の大極殿(だいごくでん)の順だというのです。
出雲大社は、怨霊としては長屋王よりもっと大物で、大和朝廷に滅ぼされた出雲の国の王である大国主命の怨霊を鎮魂し、これを封じ込めるため、又、東大寺は長屋王の怨霊の鎮魂のために建立されたもので、敢えて、本来なら日本一の大きさとすべき京都御所の大極殿(12世紀の火災により消失し、以後紫宸殿(ししんでん)にその役割を譲っています)を、大国主命と長屋王に遠慮して、これらの建物より小さくしたというわけです。
「雲太、和二、京三」をご存じなくても、坂東太郎(利根川)、筑紫二郎(筑後川)、四国三郎(吉野川)という表現ならご存知の方もいらっしゃるでしょう?
又、日本の三大古橋を表した山崎太郎(山崎橋)、瀬田二郎(瀬田の唐橋)、宇治三郎(宇治橋)などというのもあります。
弘法大師が作ったともいわれる「いろは歌(いろはにほえとちりぬるを・・・)」も、本当の作者は源為憲、或いは、柿本人麻呂だと主張する人もいるようです。
「いろは歌」も結構ミステリーです。
度々脱線して、高尾山から遠のいているので、次回は、一旦高尾山に戻ろうと思います。
本旨とはずれますが、奈良は基本的に地方都市で日本の他地域同様クルマに依拠する経済と思われます。それでも人々が集中する鉄道駅がある場合はその周辺が開発されて発展しているケースがありますが、奈良の場合はターミナル駅含めてコアとなる駅(街)がないのが理由かと思われます。
八王子そごうは、駅ビルに入っていたのですが・・・ 八王子は、地元商店街の抵抗に配慮しすぎて、立川のように開発がうまく行きませんでした。年寄り人口が多く、品揃えもそれに配慮しすぎた八王子そごうは、若者たちからそっぽを向かれてしまったようです。でも、昔の人たちは、怨霊の祟りの方を信じたと思いますよ!
昔、相模中野から八王子に行く神奈中バスがありました。子供時代のことなので記憶は曖昧ですが、その道中八王子には緑屋もありました。十字屋もあったかな?八王子は甲州街道沿いに発展した町ですから奈良のご指摘に共通する点があるかもしれません!
専門家を含め読者が増えているようで何よりです。「継続こそ力なり」です♪