前回の「飯縄権現堂の参拝方法と出雲大社の拍手4回の謎」の稿で、「二礼・四拍手・一拝、この拝礼作法があるのは、全国で出雲大社の他は宇佐神宮だけである。」という、怨霊信仰に絡めた作家の井沢元彦氏の見解をご紹介しました。
宇佐神宮は、大分県宇佐市にある神道の神社で、「宇佐八幡宮」の名でも知られており、「応神天皇(おうじんてんのう)」、「神功皇后(じんぐうこうごう)」及び「比売大神(ひめおおかみ)」という三柱の神様をご祭神としてお祀りしています。
出雲大社と同じように拝礼作法が独特で、宇佐神宮の公式サイト(下記URLの情報をご参照ください)でも、前述の「四拍手」について、はっきりと確認しています。
http://www.usajinguu.com/worship/
更には、その理由についても、「よくあるご質問」とそれに対する回答として以下のような趣旨の記述があります。
質問:どうして拝礼作法は「二礼・四拍手・一礼」なのですか?
回答:通常、神社での参拝作法は「二礼・二拍手・一礼」ですが、宇佐神宮では「二礼・四拍手・一礼」の作法にて参拝いただいています。この作法は、特に文献等には記録されてはいないものの、古儀により現在に至るまで行われてきました。皆様がお参りする時だけではなく、祭典奉仕をする神職も「四拍手」の拝礼作法をしています。宇佐神宮の他にも、出雲大社なども「二礼・四拍手・一礼」にてお参りをしています。
より正確には、次のURLからの情報をご参照ください。
宇佐神宮は、長らく皇室の庇護を受けており、“何故か”伊勢神宮に次ぐ格式を有しています。
歴史上も有名な、皇位継承を巡る、いわゆる「弓削道鏡(ゆげのどうきょう)事件」(下記のURLの情報をご参照ください)も、宇佐神宮の「ご神託」に端を発したもので、皇位継承に関わる問題にも拘らず、主役は伊勢神宮ではなく、“何故か”宇佐神宮です。
http://www.usajinguu.com/wake/
注目すべきは、ご祭神としては、“正体不明の”「比売大神」が、「応神天皇」(向かって左)と「神功皇后」(向かって右)を差し置いて、三つある社殿のうち、中央の社殿に祀られていることです。
あたかも宇佐神宮の主祭神のようです。
宇佐神宮の公式サイトでは、比売大神を「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」であるように説明していますが(下記のURLの情報をご参照ください)、実は、「比売大神とは、伝説的なシャーマン・クイーンの「卑弥呼(ひみこ)」ではないか、更には、卑弥呼と天照大神は同一人物であり、その鎮魂のために宇佐神宮に祀られているのではないか」、という説をご紹介したいと思います。
この説は、日本史の教科書にも言及される「魏志倭人伝」の記述を基にして、下記の二つの仮説を結びつけて構成したものです。
①「邪馬台国(やまたいこく・やまとのくに)」の王位についた卑弥呼(日巫女・日御子)が、その在位中の248年に起きた邪馬台国の南に位置して邪馬台国と対立する「狗奴国(くなこく・くなのくに)」との戦争で敗戦した責任を問われて後継者に殺され、代わりに即位した男王による治世によっても混乱は収まらず、再び女王として卑弥呼の宗族(そうぞく・しゅうぞく)の「台与(壹与)(とよ)」が即位し混乱を治めた。
②邪馬台国と狗奴国の戦争が起きたのと同年の248年9月5日の午前中に、日本では「皆既日蝕」が観察されている。
「卑弥呼は、狗奴国との戦争の敗戦責任を取らされて殺された」という見方を最初に発表したのは、福岡県出身の推理作家の松本清張氏(1909〜1992年)であると言われています。
「天岩戸伝説は、248年9月5日午前中の皆既日蝕を基にして創造された」というふうに考えれば、最初に天岩戸に隠れたのが太陽神たる天照大神としての「卑弥呼」で、日蝕後に、卑弥呼の代わりに天岩戸から出てきたのは、(男王の治世の後に、新たな女王として即位した)新たな天照大神としての「台与(壹与)」というシナリオになろうかと思います。
強力な邪馬台国が狗奴国との戦争に敗れたのは、「太陽神、或いは、日御子(ひのみこ)である女王がいるにも拘らず、太陽が(見え)なくなって、世の中が真っ暗になってしまうとは一体どういうことだ?」という邪馬台国側の動揺・混乱にも原因があったのではないかと推測されます。
歴史的にも、「日本列島が天災に見舞われるようなことがあれば、“この天変地異は私の不徳の致すところです”という思いのもと、命懸けの祈りを捧げられるのも歴代天皇のお務め」という考えがあるくらいです。
中国のように歴法も確立していなかったその当時の日本で、「皆既日蝕」を“起こしてしまった”ら、太陽神、卑弥呼の「権威及び信用の失墜」は致命的なものだったかも知れません。
因みに、卑弥呼の死去年は中国資料から247〜248年と推定されているようです。
下記の「国立天文台 暦計算室」の「日月食等データベース」へのリンクから、248年に、日本で実際に「皆既日蝕」が観察された可能性が高いことを、ご自身でご確認下さい。
https://eco.mtk.nao.ac.jp/cgi-bin/koyomi/eclipsedb.cgi
「国立天文台 暦計算室」の「日月食等データベース」で調べてみると、前年の247年3月24日にも日本で皆既日食が観察された可能性が高いと思われますが、タイミングとしては北九州でも日没時だったようですから、どこまでのインパクトがあったかは、よく分かりません。
更には、248年の皆既日蝕についても、北九州より緯度が高い地域(例えば、現在の関西地方など)の方が、もっとよく見えたのではないかと思われますので、その点は、多少、邪馬台国九州説を主張する人にとっては多少のマイナス材料かも知れません。
何れにしても、卑弥呼が、後継者から、皆既日蝕やそれを引き金とする狗奴国との戦争の敗戦責任を問われて「無念の死」を遂げたということであれば、ここでも怨霊鎮魂の必要性が認められるわけです。
この説は、邪馬台国九州説をベースに、邪馬台国の東遷(とうせん)により大和朝廷が成立したということを前提としています。
つまり、「卑弥呼」の霊廟は九州(大分県宇佐市)にあるが、神格化されて「天照大神」となり、霊魂は、邪馬台国の東遷とともに非征服者の聖地である伊勢神宮の地に祀られたということになります。
伊勢神宮の内宮(ないくう)に祀られているのが無念の死を遂げた「卑弥呼(日巫女・日御子)」である「天照大神」で、そのお守り、或いは“見張り”をしているのが、外宮(げくう)に祀られている「台与(壹与)(“とよ”)」である「豊受大神(“とよ”うけのおおみかみ)」というふうに考えるわけです。
日本書紀では、神功皇后が(卑弥呼と同時代の)201〜269年に、応神天皇の摂政を務めていたということになっていますので、天照大神=卑弥呼(或いは、卑弥呼+台与(壹与))(天岩戸伝説)=持統天皇(天孫降臨神話)=神功皇后(日本書紀)などというように、“妄想”は広がってゆきます。
一方で、宇佐神宮では、比売大神と神功皇后が並んで祀られているので、比売大神(宇佐神宮)=天照大神(伊勢神宮)、神功皇后(宇佐神宮)=豊受大神(伊勢神宮)という解釈もアリかなと思います。
神功皇后は、唯一、漢風諡号(かんふうしごう)に「神」の文字を持つ実質的な“女帝”であることにも注目すべきかと思います。
「国立天文台」の「日月食データベース」内の情報でも、248年は、「神功皇后摂政48年」となっています。
因みに、漢風諡号に「神」の文字を持つ天皇は、神武天皇、崇神天皇、応神天皇の3名の天皇です。
「天智天皇の諡号と万世一系の皇統の謎」の稿で、易姓革命により王朝交代が頻繁に起こる中国に対して、「日本は、万世一系の天皇が統治する国で、歴史も長くてお前のところよりこんなにスゴイんだぞ!」と、「外交目的」でハッタリを効かせて、神武天皇まで「“無理して”遡っちゃった」という言い方をしましたが、「天照大神=卑弥呼(或いは、卑弥呼+台与(壹与))(天岩戸伝説)=持統天皇(天孫降臨神話)=神功皇后(日本書紀)」的な角度から考えれば、この三人の天皇についても“似たような見方”ができるようです。
因みに、広辞苑で「はつくにしらすすめらみこと」を検索すると、以下のように表示されます。
はじめて造った国を統治される天皇の意。すなわち神武天皇、また崇神天皇をいう。神武紀「始馭天下之天皇」。崇神紀「御肇国天皇」。
「始馭天下之天皇」、「御肇国天皇」ともに、読みは「はつくにしらすすめらみこと」です。
つまり、少なくとも、神武天皇=崇神天皇という推測もアリかなという感じですね。
記・紀によると、応神天皇については、「母親である神功皇后の妊娠期間が、彼女の夫の仲哀天皇が亡くなってから15ヶ月」とされており、“人類としては長すぎる”と言わざるを得ず、彼は、父方に天皇の血を引く「男系男子」という基準から外れてしまっているのではないかいう合理的な疑いがあります。
従って、応神天皇は、実質的な「易姓革命」による新王朝の創始者という推測も成り立ち、そういう意味での「神」を含む諡号となっているのかも知れません。
映画化もされた「白昼の死角」という作品でも有名な、推理小説家の高木彬光氏(1920〜1995年)の著作に「邪馬台国の秘密」という、邪馬台国の所在地を推理する興味深い作品があります。
小説の主人公「神津恭介(かみづきょうすけ)」の推理には、天岩戸伝説こそ登場しませんが、①魏志倭人伝の記述に基づいて考えると、「邪馬台国の所在地は大分県の宇佐市付近」と推定され、②宇佐神宮に祀られている比売大神の正体は卑弥呼ではないか、③宇佐神宮は卑弥呼の古墳の地に築かれたのではないか、更には、④神功皇后と応神天皇は、卑弥呼の子孫にあたるのではないか、という結論に至っていますが、非常に説得力があるストーリーだと思います。
大学時代の友人の一人が、福岡県「山門郡(“やまと”ぐん)」(現在は柳川市の一部)の出身なのですが、彼も、“やまと”という名前の、自分の故郷を舞台とする邪馬台国九州説を主張していました。
ひょっとすると、彼も、高木彬光氏の「邪馬台国の秘密」を読んだことがあるのかも知れません。
ところで、宇佐神宮の「よくあるご質問」の回答中の表現が「宇佐神宮の他にも出雲大社なども・・・」となっていましたので、調べてみると「越後一宮 弥彦神社(えちごいちのみや やひこじんじゃ)」も、公式サイト上で、参拝方法について以下のように説明していることが判りました。
一般的に神社参拝の作法は「二礼二拍手一礼」ですが、彌彦神社では拍手を四度打つ「二礼四拍手一礼」です。拍手は日本古来の拝礼作法として、宮中をはじめ神社での祭祀や儀礼において、歴史的に多種多様な拍手の回数・作法があります。彌彦神社の四拍手についての詳細は不明ですが、より丁重に御神前を拝する心を表す作法として、代々の神職等が伝えてきたものと言えます。
※「二礼二拍手一礼」の作法にて参拝されても結構です。
より正確には、次のURLからの情報をご参照ください。
https://www.yahiko-jinjya.or.jp/visit/gosanpai/index.html
・・・ということは、前回、「飯縄権現堂の参拝方法と出雲大社の拍手4回の謎」の稿でご紹介した、作家の井沢元彦氏の言う「二礼・四拍手・一拝、この拝礼作法があるのは、全国で出雲大社の他は宇佐神宮だけである。」という前提は成立しない、或いは、この認識は正確ではないことになります。
弥彦神社が怨霊信仰と関係しているかどうかについての“確たる”情報は持ち合わせていませんが、皇室の三種の神器が、出雲大社、宇佐神宮、及び弥彦神社というこれら三つの神社のある被征服地から奪い取ったものだという仮説と結びつけて、弥彦神社についても怨霊信仰と関係しているのではないかという見方もあるようです。
つまり、統一国家形成の過程で、大和政権は、①八咫鏡(やたのかがみ)を、魏志倭人伝にも登場する「伊都国(いとこく)」のように銅鏡を宝としていた(近くに、宇佐神宮がある)北九州政権から、②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は、製鉄技術を持つ(近くに、出雲大社がある)出雲政権から、③八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、翡翠(ひすい)の産地である(近くに、弥彦神社がある)北陸政権から、それぞれ奪い取って、これらを支配下においたというものです。
確かに、NHK「ブラタモリ」でもよく取り上げられるフォッサマグナ(大地溝帯)の際(きわ)にある糸魚川静岡構造線付近は、日本最大の翡翠の産地として知られています。
それでも、この見方と、これまでお話ししてきた「邪馬台国九州説をベースに、邪馬台国の東遷により大和朝廷が成立した」という仮説との間で、うまく折り合いをつけることができるのかという問題は残ります。
銅鏡は、邪馬台国の卑弥呼も持っていたようですから、銅鏡を除いて他の二つは大和政権が、被征服地から奪い取ったものと言えるかも知れません。
従って、出雲大社、弥彦神社については、それぞれの被征服地の神々の鎮魂のための神社だが、宇佐神宮については、皆既日蝕やそれに伴う狗奴国との戦争の敗戦責任を問われて無念の死を遂げた卑弥呼の鎮魂のための神社というように分類できるのではないでしょうか?
征服者である大和政権自体は、何の宝物も持っていなかったという方が不自然ですしね・・・
因みに、公式には、「天叢雲剣は熱田神宮(あつたじんぐう)、八咫鏡は伊勢神宮、八尺瓊勾玉は皇居にそれぞれ安置されており、三種の神器を直接観ることは代々伝来されている天皇陛下ですらできない」ということになっているようですが、今年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描れているように、「壇ノ浦の戦い」で、天叢雲剣は失われてしまったようですし、秘仏となって見ることが出来ない高尾山薬王院の開山本尊の薬師如来みたいな感じですね。
古代歴史のロマン探訪については、はっきりしないことが多い方が、より神秘的、且つ魅力的なものになるようです。
ネット上では、出雲大社と宇佐八幡宮は、注連縄を張る向きについても共通点があると実(まこと)しやかに主張する人もあり、更には、弥彦神社についても同様だという方もいるようですが、写真等で見る限りは、はっきりしたことは判りません。
しかし、この問題について、宇佐神宮に対し、直接電子メールで問い合わせたところ、下記の通り、否定的な返事が返ってきました。
(私の質問):宇佐神宮も出雲大社と同様、注連縄の張り方が、左上右下ではなく、参拝者から向かって左側を綯始としていると聞いたのですが、本当でしょうか?
(宇佐神宮側の回答):当神宮では、神道作法の上位・下位に則りまして、注連縄の綯始は向かって右側にしております。当神宮での御神前にお供えをする神饌(しんせん)(神様への供物として用いられる飲食物)につきましては、社殿の並びに合わせ、向かって左側を上位としておりますが、当神宮では社殿に注連縄を張らないため、通常の向かって右側を上位としている次第であります。
「社殿の並びに合わせ、向かって左側を上位としておりますが」というのは、向かって左側の一之御殿の応神天皇が最上位、次が真ん中の二之御殿の比売大神、最後が向かって右側の三之御殿の神功皇后ということなのでしょうが、常識的に考えれば、真ん中に鎮座する比売大神が一番偉そうですけど、どうなんでしょう?
注連縄は、「左上右下の原則」に従うが、社殿の配列は、「右上左下」というのも、取り扱いとしては一貫していませんね。
更には、「社殿に注連縄を張らないため、通常の、向かって右側を上位としている」という説明も論理的ではなく、理解しにくいですね。
“本音”は、社殿の並び合わせと同様、注連縄の張り方も「左上右下」とは“反対”なんだけど、たまたま、社殿に注連縄を張らない習わしなので、どっちにしてもバレないから、“建前”としては、「左上右下」ということにしているとか?
下衆(げす)の勘ぐりです。
因みに、宇佐神宮内の御神木(ごしんぼく)に注連縄を巻いている写真を見ましたが、御神木では左右の関係が判りません。
一つ分かったことは、皇室の庇護を受けており、最上位の格式を有する伊勢神宮と、同第二位の宇佐神宮の両方の神社が、共に社殿には注連縄を張らないという事実です。
私自身は、宇佐神宮や弥彦神社には未だ行ったことがないので、注連縄の取り扱いを含めて、いつか自分自身の目で直接確かめたいと思います。
ところで、東大寺の守護神として、宇佐神宮の御祭神を迎え入れたとき、最初にくぐったのが転害門(てがいもん)だったとされ、これらの御祭神は、東大寺八幡宮(現手向山八幡宮)に祀られています。
東大寺転害門
転害門は、東大寺が、平重衝(たいらのしげひら)の南都焼討(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の大火にさらされ、主要伽藍(がらん)をことごとく失ってしまった時も、奇跡的に焼け残った天平時代の生き証人とも言える建造物とされています。
興味深いことに、転害門と手向山八幡宮の注連縄は、参拝者から向かって左側を綯始としているようです。
手向山八幡宮
手向山八幡宮と言えば、「このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに」という百人一首二十四番歌の菅原道真の一首を思い出す方もいるかもしれません。
「蛸杉も横綱も御神体?」の稿でも若干触れましたが、藤原氏の讒言(ざんげん)により太宰府に左遷され、亡くなった後に、「祟りをなす怨霊」として、朝廷や政敵の藤原氏によって「天神様」として祀られた菅原道真については、墓所である太宰府に太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう)が創建され、京都の北野天満宮(きたのてんまんぐう)には霊魂が祀られていますが、これらの神社について、注連縄が左右逆に張られているという話は聞いたことがありません。
一方で、「くわばら くわばら」という言葉があります。
これは、災難などが自分の身にふりかからないようにと唱える呪文(じゅもん)ですが、一説によれば、元々は雷除けの呪文で、桑原(くわばら)という地名の菅原道真の領地(或いは、屋敷のあった土地)があったため、「天神様、ここはあなたの御領地の(或いは、御屋敷のある)桑原ですから、雷を落とすのはやめてください!」という天神様へのメッセージということのようです。
自然現象でもある雷を完全に封じ込めるのは難しいけれど、せめて、自分にではなく、稲の豊作のために田圃にでも落として下さいというところだったのでしょうか?
実際に、京都府京都市中京区には、「桑原町」という地名があり、菅原道真の生まれ故郷であったとも言われているようです。
桑原町は、京都御苑と裁判所の敷地に挟まれており、人が住んでいない珍しい場所で、町全体が、(田圃ではなく)道路になっているようです。
通常の「怨霊の鎮魂」と、「大国主命」や「卑弥呼」のような“超大物”への対応とは、次元が違う話なのかも知れませんね。
高尾山から脱線した怨霊信仰の話が長くなってしまいましたが、まだまだ続きます。
続きは次回にしたいと思います。
ご多忙なお仕事をこなしながら、いつから探究心を持ち、沢山の関連書籍を読み、このように纏められたのかと只々驚きながら拝読しています。
これでもか!これでもか!と続けて下さい。
殆どは、還暦前の3年間の閑職の時代の暇つぶしの賜物です。そのうちネタ切れに・・・
物語は書かれた歴史であって史実とは限らず、書いた人の立場や情報によって変わってしまうものだと思っています。
今迄、神話もただの作り話との思いもありましたが、何かしらの根拠や背景があって書かれたものだと思って読むと面白いことだと、貴兄の文章を読みながら感じました。
物語は書かれた歴史であって史実とは限らず、書いた人の立場や情報によって変わってしまうものだと思っています。
今迄、神話もただの作り話との思いもありましたが、何かしらの根拠や背景があって書かれたものだと思って読むと面白いことだと、貴兄の文章を読みながら感じました。
私も、正にその通りのことを感じています。又、学校の歴史の授業でも、先生がもっと「与太話」を取り入れてくれれば、歴史に興味を持つ学生も増えるんじゃないかなと思います。
面白く拝見しました。
倭国・倭奴国・邪馬倭国・邪馬奴国・等、闘争の歴史はもっと複雑だと思われます。
私も今研究中ですが、何せ記録が無い時代ですから、小説になると思います。
今後も楽しみにしています。
相変わらずブログとしては長話ですが、お読みいただき有難うございます。基本的には与太話ですのでご容赦ください。